第8話 ビーチに雪が降る情景

「はぁい、J」


 重い木のドアを片手で押して、ミハイラは通い慣れた店に足を踏み入れる。ひっそりとした裏通りの地下にある、こじんまりとした静かなバーだ。

 古い土壁に、太く剥き出しになった柱や梁。そんな簡素な造りは、昔ここが酒蔵だったことを物語っている。


「やぁミハイラ」


 グラスを磨く手を休めることもなく、その小柄な黒髪のバーテンは素っ気ない挨拶を交わす。店の中にはテーブルは3つだけ。あとはカウンターに席が5つ。その一番奥が、ミハイラのいつもの席だ。

 カウンターに向かう途中には、体の大きな男たちが小さなテーブルを囲んで、くだを巻いている。これもまた、壁や天井を暗く照らす橙色の灯りと同じ。常連たちには、見慣れた光景だ。


「いよう、ミハイラ」


 男たちは、大声でろれつの回らない挨拶を投げかける。彼らは飲み比べをしているらしく、テーブルには空になったグラスと銅貨が散乱していた。


「はぁい、みんな。あんまり飲み過ぎちゃダメよぅ?」


 そんな荒くれどものテーブルの横を軽やかに通り過ぎながら、ミハイラは鮮やかに笑いかけ、ウインクを投げる。週に3度は警察の檻の中で夜を明かすような柄の悪い連中も、ミハイラにかかっては飼い慣らされた子猫のようにお行儀がいい。彼女に失礼な態度を示せば、世にも恐ろしいお仕置きが待っていることを、彼らは過去に身を持って思い知っているからだ。


 ミハイラはいつもの席にぴょこんと座り、カウンターについた両手に顎を乗せた。


「ここは相変わらずねぇ」


 そう言うミハイラの一連の動きさえもが、やはりいつもと変わらぬ情景のひとつなのだが。

 Jと呼ばれたそのバーテンは、ミハイラの言葉には気づかないかのようにグラスを拭き続ける。愛想もなければ嘘もない。そんなこのバーテンがいるカウンターが、ミハイラのお気に入りの場所なのだ。


「ね、J。いつものお願い」


 そう言って愛嬌のある笑顔を見せると、Jははじめて少し微笑み、頷いた。


「いつもの。そう、変わらないのが一番だよ」


 ミハイラはそれを聞きながら、カウンターの上のスノーグローブを見つめている。

 飾り気のないこの店で異彩を放っているこのガラスの球体は、ずっと昔のクリスマスに、酔った観光客が置き忘れていったものだ。


「そう、なのかなぁ……」


 ミハイラは頬杖をついたまま、右手でスノーグローブを弄んだ。

 あせた藍色の台がついた丸いガラスの中には、色鮮やかな赤いビキニを着た金髪の女性が、サンタ帽をかぶって立っている。

 手には黄色いビーチパラソルが握られているのだが、ドームを揺らすと白い雪が舞い上がり、そのパラソルに降りかかる。

 どうにも奇妙なその風景も、雪を見たことがないミハイラには、見知らぬ異国の風景のひとつに過ぎない。


「ずっとこのままじゃいたくないな。あたしはもっと……」


 Jが微笑みながらそっとグラスを置き、ミハイラは言葉を止めてその冷えた液体を口の中に流し込む。



 ミハイラは、15歳までをスラムで育った孤児だ。20年前、寒い冬の早朝に彼女は拾われた。

 ここからそう遠くないスラムの一角に、廃屋となって久しい教会がある。住民達の略奪によって全て持ち去られた、かつての信仰の家には、唯一色あせた壁画だけが残されていた。


 煤けてひび割れた壁に描かれた、天使の絵。彼女はその壁際の壊れた木のベンチに、古い毛布に包まれたまま置き去りにされていた。

 燃える剣を手にした天使は、まるで親の加護を失った赤子を見守っているようだったという。それが彼女の名前の由来であると、ミハイラをは自分を拾った老婆に聞かされたものだ。


 きっと彼女の親は、生活に困って仕方なく我が子を手放したのだろう。自分を捨てた親を、恨んだことはなかった。そして彼女は、コロニーと呼ばれる大きな古い家で育てられることになる。

 そこは身よりのない子供や年寄りたちが集まって暮らす、避難所のような場所だった。


 育てる、と言っても彼らもまた生活に困窮していた。与えられたのは最低限のものだけで、彼女はいつも飢え、足は裸足。着ているものはぼろ切れ同然だった。

 戸籍もなく、まともな教育を受けることもなかった。

 しかし、貧富の差の大きいこの街ではそんなことは日常茶飯事で、スラムに住む半数近くが同じような境遇の子供達なのだ。


 このアヴェリオンという国は、経済力で社会的身分がはっきりと区別される。

 過去に海外の国々を相手に、貿易で華々しく栄えていたこの島国も、急増したヴァンパイアのために諸外国から国交を断たれて久しい。

 この島に、ヴァンパイアを封じ込めておけばいい。この忌むべき島のことは、忘れてしまおう。それが各国の首脳たちの判断だった。


 以来、この国は国内の産業だけで自活し、あとは非公式の貿易だけが細々と外貨を稼ぐ手段だった。国の経済は、ごく一部の富める者達に独占され、労働者は使い捨て、弱者はことごとく見捨てられた。

 富める者が、恵まれない者に救いの手を差し伸べる、という選択もあっただろう。しかし、ヴァンパイアの脅威と戦う彼らの心には、そんな余裕はなくなっていたのかもしれない。


 それが良いことなのか、悪いことなのか、ミハイラには良く分からない。しかし、このような状況の中でも一つだけ明確なことがある。

 何としてでも、生きていかねばならない。

 貧困と病気、ヴァンパイアや凶悪犯罪の中で生き延びていける孤児達は、恐しく少ない。生き残れたとしても、収入を得るのは容易いことではなかった。


 スラムの子供達は、物心ついた頃から、路上の鉄クズや落ちた林檎の実などを拾って売ることを覚える。そうすることで、雀の涙ほどの小銭を得ることはできた。だが、それだけではとても生活していくことはできない。


 満足な教育も受けられずに育った彼らが、食うに困らない生活をしていくには、物乞いをしたり体を売ったりするしかない。犯罪に身を染める者も、そう珍しくはなかった。

 他に方法がない以上、皆それを当り前のこととして受け入れていた。そしてそうしたスラムでの生活にも、それなりに満足しているようにさえ見えた。


 しかし、ミハイラは違った。

 ヴァンパイアがいる土地だからこそ、就ける職。リスクも大きいが、可能性も無限大にある仕事。

 彼女がヴァンパイアハンターを目指したのは、10歳になったばかりの時だった。


 目指す、と言っても養成所があるわけでもない。ただヴァンパイア退治の依頼を斡旋する人間から仕事を受けて、報酬を手に入れるだけだ。

 彼女は少し年上の相棒達と一緒に、見よう見まねでトレーニングを積んだ。そうして下級のヴァンパイアを、数人がかりで一晩かけて倒す。

 仕事の後は傷と疲労で倒れるように床につき、また早朝からトレーニングに励む。


 今でこそ任務の最中に、余裕の笑みさえ見せる腕利きハンターのミハイラだが、それもこうした人並ならぬ努力あってのことなのだ。

 その後ヴァルラに出会いスラムを出て、郊外ながらもそれなりに住み心地のいいアパートに住むことができた。


 だが、それでも彼女はまだ満足したわけではない。

 経済力がものを言う国なだけに、戸籍や身分の証明さえも多額の保証金を積めば、すぐに手に入れることができる。ヴァンパイアのヴァルラでさえ持っている、あの身分を保障するカードが自分にはない。それがミハイラには辛かった。


 何かあっても身分を証明できない、街を出ることもできない。犯罪に巻き込まれた時に、公的機関に助けてもらうこともできない。

 それだけではない。自分が存在していることさえも否定されているような気がする。そんな状態から、彼女は一刻も早く抜け出したかった。もっともっと上級の、報酬の高いヴァンパイアを倒し続けて自分の身の証を買う。

 常に命の危険にさらされながらも、ハンターを続けているのはその為だ。


「あたしはもっと色んな所にも行ってみたい。戸籍や自分の家を持って……」


 Jは、彼女の夢見るような青い瞳を見つめて微笑んだ。


「じゃあ、もっと頑張って稼がないと、ね」

「うん。ヴァンパっていうヴァンパはもう、根こそぎやっつけちゃうんだからねっ」


 ミハイラは、にかっと笑って胸を張り……すぐにハッとして口を押さえた。

 目の前の寡黙なバーテンもまた、ヴァンパイアだったのを思い出したからだ。


「あ、あの、もちろん、その、依頼を受けた悪い奴だけ、よ?」


 そんな彼女の慌てぶりにJは目を細めてくすりと笑い、小さく首を振った。


「分かってるよ。何たって相棒がヴァルラさんなんだからね」


 ミハイラはほっとして頷く。そして小さく肩をすくめながらえへへ、と笑い、再びグラスに口をつけた。後は後ろの男たちの雑談と、古い音楽を吐き出すレコードをBGMに、ミハイラはくつろいだ様に酒を楽しむのだった。



 そしてその頃アパートでは。


「お、俺、いつまでこのままなのかな……」


 お札を貼られて硬直したヴァルラの問いかけは、空しく響くだけだった。

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