Rip Stick 16

「シャワー、浴びたい」

藤村さんたちが帰るとすぐ、みっこは小さくつぶやいた。

「シャワー。そうだよな。さつきちゃん。みっこにシャワー浴びさせてやって」

「えっ? ええ…」

「いい… ひとりで入れる」

かぶりを振って、みっこは立ち上がった。

「じゃあ、その間になにか飲み物用意するから。飲みたいものとか、ある?」

「…ココア」

「わかった」

みっこがバスルームに入っていくのを見届けると、川島君はわたしに指図する。

「悪いけどさつきちゃんは、みっこの服を出してやって。ぼくはちょっと牛乳買ってくるから」

そう言って川島君は部屋を出ていったが、5分もたたないうちに戻ってくると、キッチンでココアを温めはじめた。

「みっこ。着替え、ここに置いとくね」

「…」

すりガラス越しにみっこに声をかけたが、返事はなく、バスルームからはシャワーの音が聞こえてくるだけだった。

部屋から適当に見繕ってきた服を、わたしはそっと洗面台に置いて、バスルームを出た。



「…」


 みっこが戻ってくるまで、わたしと川島君はなにも喋らなかった。

凍りついたような、沈黙の時間が過ぎる。

みっこがシャワーを浴び終えるまで、時計の長針は半周も動いていなかったが、わたしには長い長い時間に感じられた。


シャワーのあと、わたしの用意した服を着て、森田美湖はリビングルームへ戻ってきた。

彼女はやっぱりうつむいたまま、黙っている。

川島君は熱いココアの入ったカップを持って、寄り添うようにみっこの側に立ち、カップを手渡すと、彼女にソファを勧めた。


「…なにかしてほしいこと、ない?」

長い時間をかけて、みっこがココアを飲み終えるのを見計らって、川島君が訊いた。

「…眠りたい」

やっぱりわたしたちの顔を見ないまま、まだぬくもりの残るカップを、みっこは両手で包んでつぶやいた。

川島君はみっこの手をとり、肩を押しながら、彼女を寝室に連れていき、ベッドに横たえ、毛布をかけてやる。

「じゃ、おやすみみっこ。今夜はもう、なにも考えるんじゃないよ」

川島君はみっこにやさしく微笑むと、となりで見守っていたわたしを促し、部屋を出ようとした。

だけどみっこはベッドから手を出し、川島君のセーターの裾を握りしめた。

わたしは思わず、ドキリとした。

みっこの瞳には溢れんばかりに、いっぱいの涙が溜まっている。

涙でうるんだ瞳で、彼女は川島君を見つめたまま黙っていたが、ようやく聞き取れるくらいのか細い声で、ひとことだけ言った。


「…いて」

「…」

川島君は立ち止まり、黙ってみっこを見つめる。

みっこもしばらく彼を見つめていたが、セーターから手を離すと、両手で毛布をまくり上げ、顔を埋めた。

「…いいよ。さつきちゃんと、ここにいるよ」

そう言って同意を求めるように、川島君はわたしを振り向く。わたしはうなずくしかなかった。


今は、なにも言えない。

なにか言い出すと、それがとんでもないことになっちゃいそうで、わたしは今夜だけは、自分の思考をすべて、ストップさせることにした。


『今夜はもう、なにも考えるんじゃないよ』


みっこへのアドバイスが、そのままわたしの心にも響いてきた。




 一晩中、わたしと川島君は、ほとんど口をきかなかった。

リビングのソファで眠れぬ夜を過ごし、ようやくウトウトとまどろみはじめた頃には、外はもう白みかけていた。

ガチャリとドアノブを回す音で、わたしは目を覚ます。

見ると、すっかり身支度を整えたみっこが、リビングルームのドアのところに立っていた。


「夕べはいろいろありがとう。お世話になりました」

わたしたちから少し距離を置いて立ち止まると、みっこはそう言って、ぺこんと頭を下げた。

ずいぶんとつくろった、丁寧な口調。

だけどそれは、ファンデーションで隠そうとしている頬の青あざと同じように、彼女の傷ついた心を覆い隠すことは、できなかった。

「いいんだよ。気にしなくて」

睡眠不足で真っ赤になった目を無理になごませて、川島君はみっこに微笑む。

そんな川島君を、みっこはじっと見つめていたが、ふと視線を逸らすと、わたしに向かって、うなだれるように肩を落とし、つぶやいた。

「さつき… ごめんなさい」

「…っち、朝食。作ろうか?」

わたしも川島君と同じように、自分の感情を抑えるように、無理に微笑みを作って言ったが、彼女はかぶりを振った。

「ううん。いい」

「大丈夫かい?」

「心配、ない。ひとりにしといて」

「そう? じゃあ、ぼくたちも、そろそろ帰るよ」

「…ん」

「みっこ。なにかあったら、連絡して」

「…ん」

「さつきちゃん。行こうか」

川島君はわたしの肩をポンとたたき、ソファを立つ。

わたしも黙って立ち上がった。


帰り支度を整えたわたしたちを、みっこは玄関先で見送る。

「じゃあ、みっこ。気をしっかり持ってね」

「…ん」

「藤村さんも言ってたけど、あとのことは心配しなくていいから」

「…ありがと」

「じゃあ、帰るね」

「…さよなら」


川島君の言葉にそう応えるだけで、みっこは伏せ目がちにしてわたしたちを見ず、ドアを閉じた。

川島君は何度も心配そうに振り返りながら、後ろ髪を引かれるように、みっこのマンションをあとにした。


それまでの間…


森田美湖と川島祐二が抱きあい、キスするのを見せられて、彼女を家まで送り、翌朝部屋を出るまで…


わたしがそのあとのような言動に出なかったのは、多分、親友だった森田美湖に対する、最後のいたわりの気持ちと、自分の醜態を、彼女にだけはさらけ出したくないという、女としてのギリギリのプライドがあったからだと思う。


つづく

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