Rainy Resort 4

“ポロンポロン♪…”

少し指を慣らしたあと、みっこが奏ではじめた曲は、有名なショパンのノクターン第2番変ホ長調。


…うまい!


『好きなのはピアノを弾くことと、踊ること』って、いつかみっこは言ってたけど、ダンスと同じように、ピアノもとっても上手。

テレビなんかで、猫背でピアノを弾いている人をよく見るけど、みっこは姿勢よくピンと背筋を伸ばし、流れるように鍵盤を撫でていく。彼女の奏でるショパンの甘い旋律は、わたしの耳を心地よく揺さぶった。

『ノクターン』の次は『別れの曲』。

この曲は切ないくらいに美しく、涙が出てきそうになる。

わたしは思わず、目頭をハンカチで押さえた。

同じくショパンの『幻想即興曲』に、ドビュッシーの『月の光』と、三・四曲続けさまに弾いているうちに、リビングルームには他のお客さんも集まってきて、リトル・コンサートのようになった。

みっこは久し振りにグランドピアノが弾けたのがよっぽど嬉しいらしく、川島君が好きだと言っていたドビュッシーやショパンの曲を、次から次に披露する。わたしたちも、みっこの奏でるよどみない綺麗な旋律に、聴き入っていた。


「上手ですねぇ」

「もしかして、音大の方ですか?」

「これだけ暗譜してるなんて、すごいなぁ」

みっこの演奏を口々に褒めながら、オーナーさんをはじめとした、ペンションのスタッフの人たちが、それぞれヴァイオリンやヴィオラ、チェロ、コントラバスを抱えて、リビングルームへやってきた。

「いつも9時からここで、わたしたち『白いピアノ弦楽四重奏団』のアンサンブルを聴いてもらっているんですよ」

オーナーさんがわたしたちに説明する。

「ピアノ、ありがとうございました。じゃあ、あたしは…」

みっこはそう言って、ピアノを空けようとしたが、オーナーさんがそれを遮った。

「せっかくなので、お客さんもぜひ、ごいっしょにいかがです?」

「え? でも… あたし、アンサンブルはほとんどしたことがないから…」

「シューベルトの『ます』をやりましょう。ご存知ですか?」

「ええ… だいたいは」

「わたしたちがピアノに合わせますから、あなたのペースで弾いてみてください」

「でも…」

躊躇ためらっているみっこに、川島君が言った。

「いいじゃないか。森田さんの『ます』、聴いてみたいよ」

「…ん。じゃあみなさん。よろしくお願いします」

川島君のエールに勇気づけられたのか、みっこは『白いピアノ弦楽四重奏団』のスタッフにお辞儀をし、わたしたちや他のリスナーにもペコリと頭を下げると、ピアノの前に座りなおした。

「音合わせしますので、Aの音をお願いできますか」

それぞれが持ち場につくと、ヴァイオリンを肩に当てたオーナーがみっこに言った。

みっこはピアノの『ラ』の音を出す。それを聴きながら、弦楽器が音を合わせていく。

だいたい揃ったところで、オーナーさんはみんなにアイコンタクトし、みっこに訊いた。

「お客さん、お名前を伺ってもいいですか?」

「森田美湖です」

「ありがとうございます」

そうお礼を言うと、オーナーさんはわたしたちに向き直る。

「はじめまして。『白いピアノ弦楽四重奏団プラス、森田美湖さん』です。それでははじめます。曲はシューベルトのピアノ五重奏曲、『ます』」

そう言ってオーナーが一礼すると、リビングルームからはパラパラと拍手がおこった。


“ジャーン ジャンジャン♪…”

ピアノと弦楽器が、一斉に曲を奏でる。

みっこは緊張した面持ちで、楽譜を追っていた。

だけど、第一楽章が終わる頃には要領を掴んだのか、彼女の表情もやわらぎ、弦楽器との呼吸もなめらかになって、リズムも軽やかになってくる。

流れるようなピアノの旋律と、ヴァイオリンの弦の歌うような響きが、快いせせらぎを元気よく泳ぎ、あるときはゆったりとしたよどみに沈み、水面にきらきらと銀色の鱗を反射させながら跳ねまわる、ますの姿を思い浮かばせる。

『白いピアノ弦楽四重奏団』の演奏もまろやかで、見事なハーモニー。ピアノの音色を引き立てていき、みっこは気持ちよさそうな表情で、鍵盤の上の『ます』を泳がせていった。


「みっこ、とってもよかったわよ! コンサート聴いたみたいで、感動しちゃった」

「ありがとう。ピアニストになるには全然練習不足だけどね」

「まったく。森田さんはいろんな特技を披露してくれるなぁ」

「そんな… 恥ずかしいわ」

「いや。ほんとすごいよ、森田さんは」

「もう。川島君ったら… 『みっこ』でいいわよ」

部屋に戻ったわたしたちは、しばらく音楽の話で盛り上がった。




「そろそろお風呂に入ろうか」

「そうね」

夜も更けてきて、会話もひと段落ついた頃、みっこはそう言って、革の鞄からお風呂セットを取り出した。わたしも自分の鞄を引っ張り寄せる。

「じゃあ、ぼくは自分の部屋に戻るよ。明日は朝食のあと、みんなでテニスしよう。8時に食堂で待ってるから。おやすみ」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

川島君は明日の予定を決めて立ち上がり、軽くおやすみの挨拶をしてドアを出る。わたしも挨拶を返し、なにげなく川島君を目で追う。

みっこはそんなわたしを見て、ささやいた。

「ほんとは、川島君といっしょにいたいんでしょ?」

「えっ?」

「ふふ。今、そんな目で見てたわよ。『いっしょの部屋で寝たい』って」

「やだ~。みっこのエッチ」

「そんな意味じゃなくって… まぁ、それもあるけど。あたしはいいから、さつきは彼の部屋に泊まれば?」

「いいよぉ」

「遠慮しなくていいのに」

「遠慮じゃないよ」

「ん~… やっぱり、三人って人数は微妙かな。あたしも早く恋人作らなくちゃね」

お風呂セットを抱えてペロッと舌を出し、みっこは冗談のように言ったけど、その表情は少し寂しそうだった。


『恋人』か…


あれからみっこの恋は、どうなったんだろう?

『好きな人が、できちゃったみたい』

と、モルディブからの帰りに告白してから、みっこはその話題をまったく口にしない。

彼女の場合、『訳あり』な恋にはまりそうになっているみたいだから、迂闊うかつに訊くのもはばかられる。

なんだか複雑。

わたしもみっこの彼氏と4人で、晴れてダブルデートなんてしてみたいけど、そんな日って、来るのかな?


 『白いピアノ』の温泉は、大きな窓のある室内浴場と露天風呂があって、野外の露天風呂からは、キラキラとまたたく星空と、真っ黒のシルエットになった九重連山が、よく見える。

そんな温泉につかりながら、わたしたちはずっと、昔話に花を咲かせていた。


「そう言えば、去年の夏にいっしょに海に行ったとき、わたし、みっこには『絶対彼氏がいる』って思ってたんだ。あの頃って、まだみっこのことよく知らなくて、みっこもなかなか打ち解けてくれなかったわよね」

「そうだったわね。あたしも直樹さんとの別れをずっと引きずってて、さつきから『恋人いる?』って訊かれたときも、『心から好きになれる男の人に、出会ったこと、ない』なんて、直樹さんを否定するようなことを、ムキになって言ってた気がする」

「そのときのみっこ、すっごい厳しい顔してたわよ」

「え~? やだなぁ」

「なんか、懐かしいわね~」

「そうね…」

湯船につかって、キラキラとまたたく星を見上げ、みっこはポツリとつぶやく。

「人って… どんどん変わっていくものね」

「え?」

「あの頃は、さつきにはまだ彼氏がいなくて、『純情な子だな~』って思ってたのに、今じゃ川島君と、ブイブイ言わせてるし」

「ブイブイって… そんなんじゃないよぉ」

「あはは。冗談。でもあの頃は、こうやって一年後にいっしょに温泉に入るなんて、思ってなかったわね」

「そうね。今年の夏もまた、バカンスに行こうね!」

「ええ。行きたいわね」


 シャンプーをして、お風呂から上がって、髪を乾かしている間も、ふたりはずっとそんな話をしていた。だけどわたしの方から、みっこの今の恋の話題に触れることはしなかったし、みっこも切り出す気配もなかった。


 部屋に戻ってお肌の手入れをしながら、みっこはふと、思い出したように言う。

「ほんとにいいのよ。さつきは川島君のお部屋に泊まっても」

「みっこ、まだそんなこと言ってるの?」

「だって… ふたりに悪いし…」

「だからいいんだって。このバカンスは、みっこのために計画したんだし。今夜はずっと、みっこといろんな話、していたいのよ」

「そう… ね」

みっこはようやく安堵したような表情を浮かべ、その夜はもう、川島君とのことを言い出すことはなかった。


わたしと川島君に気を遣ってくれるのは嬉しいけど、ちょっと遠慮しすぎているみたいで、『生意気でわがままな小娘』の森田美湖にしては、なんだか不自然。


つづく

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