CANARY ENSIS 6

 パーティがお開きになったのは、まだ9時にならない頃。

今日一日、遊び回ったわたしたちは、明日からの撮影に備えて、早めに休むことになった。

おやすみの挨拶のあと、みんなはロビーで別れ、それぞれの部屋に引き上げていく。みっこはメイクの仲澤さんと同室で、わたしに軽く手を振ると、ふたりで階段を上がっていった。

「さつきちゃん、行こうか」

だれもいなくなったロビーで、川島君の声だけが、やたらと響く。

その言葉に、ドキッと心臓がひとつ鳴り、わたしは昼間のことを思い出した。


『あなたたちはいっしょの部屋でいい?』

みっこはそう言って、わたしたちにルームキーをひとつ差し出した。

『え? わたしと川島君?』

『ええ』

『あの…』

『いいですよ』

戸惑っているわたしの横から、そう言って川島君が鍵を受け取った。

あのときからわたしは、この瞬間が来るのを心待ちにしていた反面、怖くて逃げ出したくもあったのだ。


 はじめてキスをした、ディスコでの夜から、わたしと川島君の関係は、また少しずつ変わりはじめたと、肌で感じていた。

それは、恋人同士になった過程とは違う変化。

川島君は相変わらずやさしく、あったかい微笑みは、以前と少しも変わらない。

喫茶店で向かい合ってのおしゃべりも、わたしが憧れていたような恋人同士そのもので、わたしは満たされていたはず…


なんだけど、心の…

ううん…


からだのどこかに、もやもやとしたものが、溜まりはじめていた。


デートの帰りの夜。

川島君はわたしを、いつものように、家の前まで送ってくれる。

駅を降りると、少し遠回りの薄暗い公園をわざわざ通る。

公園に入ると、川島君はわたしの肩を抱き寄せる。

ぴったりくっついたからだ。

ひとけのない公園の隅で立ち止まった川島君は、わたしを抱きしめ、キスをする。

長いキス。

そうしながら、川島君の指がわたしのからだをなぞっていく。

その手が、ブラウスの中に忍び込み、わたしの素肌にじかに触れる。

いつのまにかブラのホックをはずし、胸のふくらみをやさしく撫でている。


そんなことされると、たまらなくなってくる。

からだの芯からじんわりと熱いものがこみ上げてきて、思わず声が漏れ、じっとりと濡れるような感覚が溢れ出し、もっともっと川島君がほしくて、むずむずしてくる。

そんなわたしを見られるのは、とっても恥ずかしくてイヤなんだけど、もう、理性じゃ止められない。


 川島君とモルディブへ行くことが決まったとき、ロマンティックな南の島で、彼といっしょに過ごす熱帯夜はどんなに楽しく、なにが起こるのか、妄想と好奇心でいっぱいになった。

もちろんわたしだって、なにも知らないわけじゃない。

だけど、知識として知ってはいても、まだ見ぬ扉をはじめて開くときには、やっぱり躊躇ちゅうちょしてしまう。


 ホテルの部屋に入ると、川島君はカチリとドアを閉め、鍵をかけた。その固い金属音に、ドキリとする。

外からの音は閉ざされ、ふたりだけの空気が流れる。 

リゾートホテルらしい、エスニックの香り漂う木目調の部屋は、仄暗く、とうのテーブルとカウチソファー。それから、真っ白な天蓋のついた大きなベッドがふたつ。その回りにはかすかに明かりのともったランプがあって、ベッドにかかった緋色の毛布を、なまめかしく浮かび上がらせ、いやがうえにもムードを高めている。

こんな素敵な部屋で、一生一度きりの思い出を、いちばん好きな人と作れるのは、本当に素敵なことなのに…

そんな期待とはうらはらに、まるで川島君から触られるのをイヤがるように、わたしは窓際に立つと背中を向けて、外の景色を見ているふりをした。


「別々の部屋がいいなら、森田さんにそう言ってくるけど」

背中から、わたしの気持ちを察したような川島君の声が聞こえてきた。

「え? そうじゃなくて… このままで、いい」

思わずそんな返事をしてしまい、わたしはもう、あとに引けなくなってしまった。

「やっと、ふたりきりになれたね」

川島君はわたしをうしろから抱きしめ、ささやく。緊張でからだが固くこわばる。

「今日、こうやって、さつきちゃんといっしょにいられて、ほんとうに嬉しいよ」

そう言いながら、彼はわたしの肩を掴んでやさしく振り向かせ、キスをする。いつもは甘く感じるこのひとときが、今日ばかりは怖かった。

「こ… 紅茶を飲みましょ。わたしなんだか、喉が渇いちゃった」

そう言い訳して、わたしはキスの途中で顔を背け、川島君の腕をすり抜けた。


 ティーポットに本場スリランカの、『ウヴァ・ティー』の葉っぱを入れ、わたしと川島君はカウチソファーに黙って並んで座った。

ティーカップに紅茶を注いでいるときも、わたしたちは無言のままだった。


…なんだか気まずい。

川島君は黙ったまま、カップを手にしている。

わたしが拒んだことを、川島君は怒っているのかもしれない。

もしかしてわたし、嫌われちゃったのかな?


彼の顔が見れず、カップにたゆたう紅茶に目を落としながら言う。

「…ごめん」

「なにが?」

川島君はじっとわたしを見つめる。

「『なにが?』って言われても…」

「キスをやめたこと?」

「…」

わたしは黙ってうなずく。

「ぼくの方こそ… ちょっと動揺しちまったかな~。さつきちゃんに嫌われたかと思って」

「そんなこと、ない」

わたしはかぶりを振った。川島君は安心するかのように、吐息をもらす。

「ごめんよ。さつきちゃんの気持ちも考えずに、暴走しちまって」

そう言って川島君は言葉を区切り、ティーカップに口をつける。

「安心しなよ。さつきちゃんの準備ができるまで、ぼくはいつまでも待つよ」

「あ、ありがとう」

「はは… なんか思い出すな」

「なにを?」

「去年の、まだ、つきあいはじめる前に、こうやって紅茶を飲みながら、『紅茶貴族』で話したことがあっただろ。『みんな、人間性を磨くより、凸凹でこぼこをくっつけることにばっかり熱心だ』って」

「そういえば… そんな話、したわね」

「あの頃のぼくは、なにも分かっちゃない、ドーテー君だったよ」

「え?」

「あの頃は、相手のからだを求めることが、なんだか低級な欲望みたいな気がして、『お互いの人間性を高めるようなつきあい方がしたい』なんて、偉そうなこと言ってたけど、今じゃその欲望に翻弄ほんろうされて、狼狽うろたえてる。まったく、だらしない話だよな」

「そんなことない」

「こうしてさつきちゃんとつきあえて、はじめて実感したよ」

「なにを?」

「好きな人の存在って、なんて言うか… 圧倒的なんだよな~」

「…」

「キスしたときの唇とか、触れあった肌の感触が、寝ても醒めても思い出されちゃって、頭から離れなくなる。

さつきちゃんのこと、とても大事にしてあげたいって気持ちはあるのに、欲しくてたまらない気持ちが歯止めきかなくなって、そのふたつがぶつかりあって、混乱してる」

「…」

その言葉を聞いていると、なにも言えなくなる。

「な~んか、すっごく月並みでドン臭い表現けど、これが『おとなの階段』ってやつなのかなぁ~」

わたしは胸のあたりが、ジンと熱くなった。


だって…

わたしの気持ちも、川島君とまったくいっしょだったから…


「…いいよ」

ため息が漏れるような、小さな声で、わたしは言った。


つづく

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