Moulin Rouge 7

 みっこに対する意地の悪い、陰険そうな口調とはまるで別人のように、藍沢氏は温和でやさしく、親しげにわたしたちに気をつかってくれる。

知識や話題も豊富で、会話のキャッチボールが上手く、わたしや川島君がどんな話を切り出してきても、スムーズに受け答えして、会話を楽しませてくれる。

それに雰囲気も落ち着いているし、テーブルに肘をつきながらラフにものを食べる仕草さえ、どことなく品の良さが感じられる。

そういうのはやっぱり、おとなの男性の魅力なのかな?

藍沢氏には、同い年の男の人にはない余裕と、包容力を感じる。

これなら、どんなにわがままな女の子でも、上手く受け入れて、手のひらで転がしてあげて、つきあっていけそう。

『この人はやっぱり、みっこの恋人だ』

わたしはそう、実感した。


じゃあ、どうしてみっこは彼と別れてしまったの?


藍沢氏が加わってからというもの、みっこはもう見栄もプライドも繕う余裕さえないように、彼から目を逸らして、ソファに深く埋もれたっきり、黙り込んでいる。

あの、『生意気でわがままな小娘』の森田美湖をこんなにしてしまうほど、藍沢氏の存在は彼女にとって、大きなものなのに…


「…」

ふと、会話がとぎれ、気まずい沈黙が漂った。

そんな空気を拭おうとするかのように、藍沢氏はみっこに向かって注文した。

「そうだみっこ。久し振りにカクテル作ってくれないか? 昔よく作ってくれただろう、ぼくの好きな『マンハッタン』」

「もう、忘れたわ」

視線をそらせたまま、みっこはそっけなく答える。

「しかたないな。じゃあ教えてあげるよ。いいかい? ほらみっこ、こっちを向いて!

人が話しかけているのにそっぽを向くのは、マナー違反だろう」

みっこはしぶしぶ、藍沢氏の方に向き直った。

「ウイスキーと… あ、弥生さん。それ取ってくれる?」

そう言いながら彼は、わたしの手元に置いてあった『HAIG』を指差す。わたしは彼にボトルを渡す。

「ウイスキーにベルモットを三分の一。アンゴスチュラを数滴たらすだろ…」

みっこはまったく気のない様子で、藍沢氏の手元を眺めている。わたしは興味深げに、カクテルを作っていく彼の綺麗な指先を見守った。

「…そしてステア。思い出したかい? これが『マンハッタン』」

藍沢氏はそう言って、笑いながらグラスを傾けた。琥珀色の輝きがとても綺麗なカクテル。

ん?

あれ? このカクテル…


そうだわ。

さっきみっこが作ったカクテルだわ!

『あたし、作れるカクテルあるのよ』

そう言ってみっこは、これと同じものを作った。

そして、それをバケットに捨ててしまって、まるで張りつめた糸が切れるかのように、沈み込んでしまったんだ。


そうだったのね。

カクテル『マンハッタン』は、みっこの恋の思い出…


みっこ。

あなたにとって藍沢直樹氏は、本当に大きな存在だったのね。

彼が好きだったカクテルを、気がつかないうちに作ってしまうくらいに…

ううん。今日だけじゃない。

いつか、わたしが片想いの相談をした喫茶店でも、恋を手放したあとの港の埠頭でも。

もっと遡って、あの夏の日にはじめて恋の話をしたときも、みっこはいつだって、藍沢氏のことを、心のどこかで思い出していたのかもしれない。

あの、『生意気でわがままな小娘』の微笑みの裏側に、こんなにもくすぶった、やるせない執着があったなんて…


そう…

執着。


藍沢氏のことを完全に拒絶しないと、自分が保てないほどの、強い執着。

もしかして、学園祭の夜にみっこの告白を聞いて、わたしが「足りない」と感じていたジグソーパズルの最後のかけらは、これなのかもしれない。

藍沢直樹氏との確執が、みっこがかたくなにモデルを拒んでいる原因になっているんじゃ…


「あれ? そのカクテル、さっきみっこが作って、捨てちまったやつだろ?」

わたしの思いを遮るように、芳賀さんが声を上げた。

あんっ! この人なんて気が利かないの?

今のたったひとことで、なんとか釣り合っていた森田美湖と藍沢直樹の天秤は、大きく傾きはじめた。

『したり』といった意地悪げな顔で、藍沢氏はみっこを見た。

「あれ? もう忘れたんじゃなかったのかい? みっこ」

「…」

みっこはなにも答えず、ただ黙っている。

「…だろうな。芳賀くんのような、かっこいい彼氏ができたんだ。ぼくのことなんか灰皿に捨ててしまっても、惜しくないだろう」

「…」

「たった一年で昔のことをみんな忘れてしまうなんて、女なんて薄情なものだな」

「…」

追いつめられるように、眼差しが厳しくなっていくみっこ。

わたしはなにもしてやれない。

ただ、ハラハラ見守るしかできないなんて…

「モデルをやめて、ご両親をさんざん落胆させて、ぼくのこともあっさり振って、こんな地方の大学に進学してまで掴んだ恋だから、たいそうご立派なものなんだろうな」

「…」

「彼の背中にも、爪を立てたかい?」

「…」

瞬間、みっこはピクリと反応し、両手をぎゅっと握りしめた。

「君はあの日。ぼくのことをあれほどけなして別れたんだ。そんな君がぼくより劣るような男と、付き合ったりするはず、ないよな」

その刹那。沈黙を守っていたみっこは、まるで逆鱗げきりんに触れられた龍のように、怒りをあらわにし、両手でテーブルを“バン”と激しくたたき、きつく眉を寄せて、唸るように言った。

「ええ。あなたのことなんて、とっくに忘れていたわ。

灰皿にタバコを捨てるより、惜しいとは思わなかったわ。

別れた次の瞬間から、昔のことはみんな忘れるほど、あたしは薄情な女よ。

芳賀くんはいい人だし、爪痕でも歯形でも、いくらでもつけてるわよ。

あたしは福岡ここに来て、ほんとに幸せになれたんだから。

あたしのこと愛してるなんて言ってて、モデルのあたししか見てくれないような、メンクイのあなたよりいい男なんて、世の中には掃いて捨てるほどいるわよ。

あなたと別れてほんとによかった。後悔どころか、晴れ晴れとした気分よ。

こう言えば、気がすむんでしょ」

けっして大声で怒鳴ったわけじゃない。

でも、押し殺したようなその口調からは、みっこのふつうじゃない怒りが、じゅうぶんに伝わってきた。

「君はいつでも、口先ばかりだ」

鼻先でせせら笑うように藍沢氏が言ったとたん、みっこの瞳はカッと燃え上がった。


「じゃ、こうすればいいんでしょっ!」


あっ! と叫ぶ暇さえない。

次の瞬間、芳賀さんの首に腕を回したみっこは、わたしたち三人の見守る中、彼の唇に自分の唇をきつく重ねあわせた。

「みっこ!」


うっそぉ!

思わずわたしは絶句した。

とうとう、感情が勝手に突っ走りはじめた。まるで自暴自棄。

藍沢氏もあっけにとられている。

キスするふたりを、ただ、驚いて見つめるだけだった。


…10秒 …20秒。


長い時間がすぎて、ようやくみっこの唇が芳賀さんから離れた。


“バシッ”


しかし、次の一刹那、大きな衝撃音。頬を押さえる藍沢氏。

なにも言わないまま、唇をきゅっと結んでみっこは席を立ち、駆け込むようにドレッシングルームへ消えた。

すべてが不意を突かれたようなできごと。

残された四人はただ、みっこの消えた行先を、目で追うだけだった。

沈黙が、ふたたび訪れた。


つづく

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