Moulin Rouge 8
「藍沢さんよ。俺、今すっごくムカついてるんだ。あんたを殴り倒してしまいたいくらいにな」
最初に口を開いたのは、芳賀さんだった。
「俺たちは恋人同士なんかじゃねぇ。俺はみっこのことを愛している。でもあいつは俺のことなんか、なんとも思ってやしない。俺がどんなに熱烈に告っても、ただの友だち以上の返事はもらえなかった。俺にとってあいつは、手に入れられない高嶺の花なんだ。
だから今日、たとえ数合わせにしても、あいつからここに誘われたときは、本当に嬉しかった。あんたが現れるまではな」
「芳賀さん…」
ゆっくりと席を立って、ブルゾンの袖に手を通す芳賀さんを見上げ、藍沢氏はポツリとつぶやく。
そんな彼を、怒りと嫉妬と絶望の入り交じったような視線で見下ろし、芳賀さんは言った。
「あいつのこと大事にしてやれないんなら、これ以上みっこに近づくんじゃねぇ。
でも口惜しいが、あいつはあんたに、まだ惚れてるらしい。俺の人生で最悪のキスだったぜ」
「…」
芳賀さんの言葉を、藍沢氏は黙って聞いている。
「芳賀さん、どこに行くんですか?」
ブルゾンのファスナーを閉め、背中を向けて歩き出した芳賀さんに、わたしは訊いた。
「悪りぃ。俺、かなり落ち込んじまった。今夜はもう帰って寝るわ。じゃあな」
振り向きもせず、右手を軽く上げて、芳賀さんは踊りの群衆の向こうに消えていった。
「芳賀さんの気持ちもわかるな」
肩を落として消えていく芳賀さんを目で追いながら、川島君がつぶやいた。
「彼って結局、好きな人からアテ馬にされただけだろ? それはプライド傷つくよ。森田さんも罪なことしたな」
「そうね…」
その言葉に同意しながら、わたしは別のことを考えていた。
じゃあ、みっこはどうして今夜『ダブルデート』なんて言い出したんだろ?
ここは『思い出の場所』だって、藍沢氏は言っていた。
今夜、その思い出の「Moulin Rouge」に来ることに、みっことってなにか大切な意味があったの?
そう言えば…
みっこは、日にちを決めたとき、『じゃあ… 12月7日とかどう? ちょうど金曜日だし、遅くまで騒げるわ』と言っていた。
それは『金曜日の夜は騒げるから、12月7日がいい』というわけじゃなく、『12月7日がたまたま金曜日だった』ってニュアンス。
12月7日のみっこの誕生日。
そして、『Moulin Rouge』。
それにどんな意味があるの?
そんなことを考えていると、みっこにぶっ叩かれて以来、すっかり元気をなくしていた藍沢氏が、「ふう」と大きくため息をついて言った。
「悪かったね。こんな恥ずかしいところを見せてしまって」
「い… いえ」
「七つも年下なのに、彼女に対すると、つい、ムキになってしまう。まったくおとなげないな」
「ついムキになるほど、好きなんですね」
慰めとも質問ともつかないことを言いながら、川島君が藍沢氏にグラスを勧めた。
「あれから1年経ったけど、ぼくたちはまだ、相手のことを、より傷つけたがっているのかもしれない」
グラスを煽って、藍沢氏はつぶやく。わたしは疑問をぶつけた。
「芳賀さんの言うとおり、わたし、みっこはまだ藍沢さんのこと、好きなんだと思います。だったらどうして、お互い、傷つけようとするんですか?」
「好きだからこそ、相手のことを傷つけたいんですよ」
「そんなのおかしいです。『好き』って気持ちは、相手を大切にするってことじゃないですか?」
「人の気持ちは、そんな教科書どおりじゃないですよ」
お気に入りの『マンハッタン』を揺らしながら、藍沢氏は続けた。
「ぼくたちはね。ちょうど一年前の今日、まさにみっこの誕生日の夜に、ここで別れたんですよ」
やっぱりそうなんだ。
みっこは今夜、一年前に別れた藍沢氏のことを想って、ディスコに来た。
だけど、『気が滅入るのがわかってて、どうして来ちゃったんだろ』というみっこの言葉から、その『想い』が『未練』や『後悔』に近いものだっていうのは、なんとなく想像できる。
「どうして別れることになったんですか? よりによって、みっこの誕生日になんて」
なんだかやるせなくて、わたしは思わず、藍沢氏を問い詰めた。
テーブルに肘をつき、藍沢氏は両手を組んで額に当てると、一年前を思い出すように軽く目を閉じ、おもむろに話しはじめた。
「確かにそうですね。あの日はこんな形でぼくたちのつきあいが終わるとは、思ってもいなかった。
去年の12月7日はちょうど、みっこが受験する大学の入学願書を取りに、福岡へ行った日なんですよ。
願書なんて郵便で取り寄せられるのに、みっこはわざわざ『大学まで取りに行く』と言って、きかなかった。誕生日にぼくと会うのを避けていたみたいでしたね。
それでぼくも有給をとって、会社を休んでいっしょにみっこと福岡に来ました。
大学で用事をすませたあと、レストランで食事をして、みっこが『踊りたい』っていうから、このディスコに遊びに来たんですよ。
ぼくは、みっこが福岡の大学に行くのは反対だった。
彼女のご両親も大反対していた。
みんな、みっこにはモデルの仕事を、もっと頑張ってほしかったんですよ。だから彼女の大学受験も、ぼくは全然応援してやる気になれなかったし、当のみっこも勉強熱心ではなかった。
みっことの遠距離恋愛にも、自信がなかった。
それまで進学や仕事のことをめぐって、ふたりがゴタゴタすることが多かったから、もし遠恋なんかになったら、もう修復はできないだろうと感じていて、会社に転勤願いを出して、福岡の支店に勤められるようにしてもらったんです」
「藍沢さんは、本当にみっこのことが好きだったんですね」
わたしがそう言うと、藍沢氏は『当然』といった表情で笑い、手元のグラスを揺らした。
「彼女以上の女性には今まで出会えなかったし、これからも出会える気がしない。
みっこは、ぼくのすべてです。
あの頃だって、終わりの予感はあったけど、彼女のことをいちばん理解しているのはこのぼくだから、なんとか修復できると信じていた。
だから去年の誕生日は、彼女へプレゼントを渡して、今日くらいはけんかをせずに楽しく過ごそうと思っていた。そんなときにみっこから突然、別れ話を切り出されたんです。いちばんお互いが傷つく形で、別れることになったんですよ。
そのときは、今日みたいな言い合いどころじゃなく、それこそお互いに罵詈雑言を出し尽くして、けんかしました。ただ、相手を傷つけたいために、考えつく限りの悪口は、すべて言いましたよ」
「藍沢さんはみっこが好きなんでしょう? なのにどうして、そんなひどいことができるんですか?」
半分なじるように、わたしは藍沢氏に訊いた。
「多分、確認したかったんです」
「確認?」
「相手の言葉に傷つくということは、愛しているという証拠でしょ。だからぼくたちはきっと、相手が自分を、より愛していることを知りたかったのでしょうね」
「そんな確認って、おかしいんじゃないですか?」
わたしが反論すると、藍沢氏は少し考えて、言った。
「じゃあ、お互いが自分を守りたかったってことかな? 相手が少しも傷つかない別れほど、辛いものはないですからね。自分が血を流すのと同じくらいの血を、相手にも求めたということでしょう」
「そんなことをせず、もっと、次に会ったときに懐かしい友だちでいられるような、綺麗な別れ方はできなかったんですか?」
もどかしそうに、川島君も藍沢氏を責めた。彼はしばらく言葉を探していたが、おもむろにわたしたちに訊いてきた。
つづく
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