2-6

 さて。結局、吉永さんに何も伝えられないまま放課後に突入したわけだが。

 この流れ、もう自分でも飽きるくらいには体験したぞ。

 さてはとんでもねえヘタレだな、この山田花鶏とかいう男は。

 休み時間になる度に、なんとか話し掛けようと吉永さんの周りをウロウロ。そろそろストーカーとして通報されても文句言えないレベルだ。

 今もこうして、吉永さんの数メートル後ろを歩いてるわけだし。

 やや癖っ毛な金髪を揺らす吉永さんの後姿を、俺はぼんやりと眺めていた。

 髪は染めると痛む、と聞いたことがあるが、彼女の髪にその傾向は見られない。きちんと手入れしている証拠だ。

「あれ?」

 その吉永さんが廊下の突き当りを左へ曲がる。そちらは下駄箱とは反対方向の筈だ。

 スクールバックを持っていたから、てっきり下校するものだと思っていたのだが。どうやら違うらしい。

 俺はそのまま後を追いかける。

 同じように突き当りを左折すると、その先で吉永さんが一つの部屋に入るのが見えた。

 その部屋の前まで移動する。扉には『文芸部』の文字。

 文芸部といえば。

 あの階段の踊り場にあったポスターが思い浮かぶ。

 ひょっとして、吉永さんはここの部員なんだろうか。いつも休み時間になると本読んでいるし、その可能性は高い。

 ここで、俺は少し思案する。

 このままこの教室に入ってしまえば、吉永さんに昨日のことを詫びることができる。

 しかしもし、他の部員が居たらどうだろうか。

 内容が内容だけに、他の人間が居る場所では口にしにくいのが問題である。

 同じ文芸部の生徒が居る前で「昨日は体重が重いって言ってごめんね」とは死んでも言えねえ。次こそ殺されるわ。

 しかし、ここで待ち続けるのも変だし、連れ出すのも憚られる。こういう場合、どうするのがベストなのだろうか。

 なんてことを、うだうだと考えていると。

 ガラっと音がして、目の前の扉が勢い良く開かれる。

 その先には、切れ長の目と金色に染めた髪が特徴の女子生徒の姿。

「さっきから何やってんの……」

 そう口にした吉永さんは呆れた様子で、至近距離から俺の顔を見上げる。

 ち、近い……。

「いや……、あの……。何やってんだろうね?」

 手を伸ばせば触れられる至近距離まで迫った吉永さんに、完全にテンパった俺。思わず疑問文に疑問文で答えてしまった。

「あたしが聞いてんだけど」

「え、と。ごめん」

 両者共に沈黙。なんだか嫌な時間が流れる。

 数秒後、それを破ったのは吉永さん。

「とりあえず入れよ」

「え、いいの?」

「何か言いたいことあるんだろ? 今日一日つけ回してたし」

「気付いてたんだ……」

「さすがに気が付くだろ」

 よく通報されなかったな。相手が吉永さんじゃなかったら、今頃牢屋の中だったぜ。

「じゃあ、お邪魔します」

 そう言って俺は敷居を跨いで部室に入った。

 そこは部室と呼ぶには憚られるほど、何もない空間だった。

 決して広くない空間の真ん中に、ポツンと置かれた長机と二つのパイプ椅子。壁際に設置された小さな本棚は、並んでいる本が少なくてスカスカだ。

 窓から差し込む筈の日光は薄いカーテンによって遮られており、部屋は全体的に薄暗い。

 そして、他に部員は見当たらなかった。

 机の上には一冊のハードカバーの本が置かれている。吉永さんはここで一人本を読んで過ごしていたのだろうか。

「他の部員は?」

「いない。部員はあたし一人」

「そ、そうなんだ」

 俺の質問に吉永さんは即答する。

 彼女はパイプ椅子を一つ引いて、その上に腰掛けた。

 そして右人差し指で向かい側のパイプ椅子を指差し。

「座りなよ」

 と一言。

 その言葉に従って、俺はゆっくりと腰を掛けた。

「し、失礼します……」

 尻に感触。パイプ椅子の座り心地は、教室の椅子のそれと違ってそこそこ良い。

 背筋を伸ばして座り、既に本に目を落としている吉永さんを見た。

 伏せ目がちになることによって、より強調された長い睫毛が瞬きによってときどき上下している。

 徐々に冷静さを取り戻した俺は、自分の置かれた状況を改めて整理し。

 ――さて、エライことになったぞ。

 噴き出した冷や汗が俺の頬を伝う。

 これは俗に言う『二人っきり』とかいうやつではないのか!?

 実は俺、吉永さんに惚れてから二人っきりになったこと一度もないんだ。

 これ、凄くドキドキするね。

 実際、吉永さんにも聞こえてるんじゃないかと思うくらい、大きな音を立てて心臓が脈打っている。

 今なら、夜鷹と雲雀の気持ちが分かる気がする。ヘタレとか言って茶化してすまなかった。どうやら俺もその部類の人間のようだ。

 とりあえず、何か話題を探さないと。

「吉永さん?」

「何?」

 彼女は本に目を落としたまま、俺の声に反応してくれる。

「あの階段のポスター、吉永さんが書いたの?」

 なんだよ、その微妙な質問は。

 心の中で、俺は自分にツッコむ。

 必死に話題を探した結果がこれ。コミュ力ゴミかよ。

 でも実際、前から気になってたことだし、いっか。

「そうだけど……。なんで?」

 視線を上げてこちらを見た吉永さんは、訝しげに眉を変形させた。

「一年生の目に入らない所にあるから、気になってて」

「ああ、なるほどな」

 合点がいったようで、ゆっくりと頷いた吉永さん。

 彼女は数秒の思案の後、口を開いた。

「あたしは新入部員には入ってきてほしくなったんだけど……。ポスター書くのは部の義務だから、仕方なく書いたって感じかな」

「なんで部員いらないの?」

「一人で静かに読書したいから」

「…………」

 これ、遠回しに俺に早く出て行けって言ってんのかな。

 いやでも、吉永さんならこんな遠回しじゃなくてストレートに「出て行け」って言いそうだから大丈夫か。

 今回は謝るのが目的だけど。部屋に二人っきりという状況は滅多に……、下手したら一生やってこないかもしれない。だから、この機会にもう少しお喋りしていたい。

 俺は何か話が広がるような話題を探し。

「何読んでるの?」

 俺は、もうゴミ虫だな。死んだ方がいい。我ながら、自分のコミュ力の低さには腹が立つ。

 これは『今日は良い天気だね』の次くらいにひどい話題の振り方だ。

「太宰治の『斜陽』。知ってる?」

「知らないな……」

「そっか」

「…………」

 はい。会話終了。

 本なんてほとんど読まないから、こういう結末になるのは予想できた筈なのにな。

 それでもなんとかして、会話を持続させようと思案して。

「……。『走れメロス』なら知ってるよ?」

「中学校でやるからな」

「…………」

 続かねえ!!

 元々口数が多くない吉永さんと、ヘタレが発動してうまく言葉が出てこない俺。二言三言喋ったら会話が終わる。

 なんだか、いつもとは勝手が違う気がする。

 でも、この続かない会話を繰り返してみて確信した。

 どうやら、吉永さんは別に怒っているわけではなさそうだ。

 いつもと変わらない吉永さんの態度に、俺は少し安心する。

 怒ってないなら昨日のことはもう口にしない、なんてことはしないけど。もう少し後でもいいかな、と思う。

 昨日件について謝罪を終えてしまえば目的が無くなってしまって、もうここに居る口実が無くなってしまう。

 我儘な気もするが、それは嫌だ。

 会話は途切れ途切れだし、微妙な間があったりする。だけど、もう少しだけ、二人だけのこの空間に居たい。

 俺は吉永さんの手元を注視する。

「それ、面白い?」

「面白いよ。読んでみるか?」

「いや、遠慮しておくよ……。文字が多いのは苦手なんだよな」

「そっか」

「…………」

 今更気が付いたけど、これは『読む』と答えていれば。話題が広がったり、この話についてお互いに感想を述べたりできたんじゃないのか?

 チャンスを逃した。なんて大馬鹿野郎だ、俺は。

 また、少しの沈黙。

「本、好きなんだ?」

 俺はまた懲りずに口を開く。

 ありふれた話題の振り方だけど、もう今更気にしたって仕方がない。どうせ、長い時間うんうん唸ったとしても大したこと思い付かないだろうし。

 それに、吉永さんについて色々知れるいい機会だ。もう思い付く限り色んなことを聞いてみよう。

「まあ、好きかな」

 本に視線を落したままの吉永さんだが、嫌な顔一つせずに答えてくれた。

 彼女の口から発せられた『好き』という単語に、俺は自分でもドン引きするくらいドキドキしていた。乙女か。

「お前は興味ないの?」

「漫画しか読まないから」

「ふーん……。典型的な馬鹿のタイプだな」

「典型的な馬鹿って……」

 確かに馬鹿なのは認めるけど量産型の馬鹿ではないぞ。俺はどっちかというと希少型だ。

「でも、こう言っちゃ悪いけど。吉永さんもけっこーアホそうな見た目外見してるよな」

 吉永さんの物言いに少しだけムッとした俺は、仕返しにそんな言葉を掛けてみた。

「は?」

 彼女は手元から視線を上げて、射るような眼でこちらを見てくる。

 あ、やべえ。超怖い。

 でも、本音を隠す質の人間じゃないから。

「金髪だし、制服着崩してるし、ピアスだし……。いかにもヤンキーとかギャルって感じ」

「そんな風に思ってたのか」

 吉永さんの言葉が急速に冷えるのを感じる。

 そんなに敵意剥き出しにしなくても……。

「アホそうな見た目の割りには成績良いし、本好きだし。それが意外というか」

 こういうの何て言うんだっけ? ギャップ萌え?

「別にヤンキーファッション狙ってるわけじゃねえよ。これはただのオシャレだよ」

「え? そうなの」

 ファッションのことはよく分からんが、言われてみればオシャレ……、な気がする。

 そういえばこの前、クラスの女子たちがそんな話題で盛り上がっていたような、いなかったような。

「あたしがオシャレに気を遣うの、そんなに変かよ?」

 あからさまに不機嫌になった吉永さんは、ほんの少し頬を膨らませて、俺から視線を外す。

 え? ちょっと待って今のもう一回。動画撮るから。

「そりゃあ、身長無駄にデカくて、奥二重で目付き悪くて。可愛くないのは自分でもわかってるけど……」

 吉永さんはぷちぷちと指先を弄り始めた。

 今まで見たことなかったいじけた表情。俺はその横顔をぼんやりと見つめる。

「あたしだって、どうせなら雲雀みたいに可愛い女の子に生まれてみたかったっての」

「うーん……。でも俺は、きりっとした切れ長の目の方が良いと思うけどなぁ」

 何気なく発した俺の言葉で、一瞬この空間の時間が止まる。

 吉永さんは大きく溜息を吐いた後、ジト目でこちらを見て。

「……。お前の好みは聞いてないんだけど」

「ご、ごめん」

 そうだよな。俺の好み聞かされても困るだけだよな。

 でも、吉永さんもかなり容姿が良いから、男子女子問わずかなり人気なんだぜ? 見た目はいいからな、見た目は。

 一部の物好きはそのキツい性格も好きみたいだけど、奴らは女の子に叱られたい願望をお持ちの方たちかな。

 俺? 俺は吉永さんの全部が好き。好きじゃないところなんてない!

「まあいいけど……。あたし、この後用事あるからもう帰るね」

「そうなんだ……。バイト?」

「そう」

「そっか……。頑張ってね」

 本音を言えばもう少しお喋りしていたい。

 しかし、バイトならば引き留めるわけにもいかなかった。

 これは俺がバイト先へ赴くしかないってことか。

「どこでバイトしてんの?」

「はあ? 教えるわけないだろ」

「まさか……。いかがわしい所で……」

「今すぐ謝れば許してやるけど?」

「すみませんでした」

 吉永さんの声音が冷えるのを感じたのでこれ以上は止めておく。

 今度、雲雀か鴇ちゃんあたりに聞いてみよう。

「じゃ、あたしは帰るから」

 そう言って吉永さんはこちらに背を向けたところで、俺は大事なことを思い出した。

 というか、今日はそのためにわざわざ部室まで追ってきたんだった。

「ちょっと待って」

「何?」

 俺の呼び掛けに対して、吉永さんは半分だけ振り返って応じた。その面持ちは訝しげだ。

 俺は頭の中でできるだけ言葉を慎重に選んで、紡ぐ。

「昨日はごめん……。ちょっと無神経だった、かも……」

 やっと言えた謝罪の言葉。この言葉を言うためだけに、俺は丸一日費やしたわけだが。終わりよければなんとやら。こうやって本人に告げることができたのだから良しとしよう。

「ん? 昨日?」

 吉永さんは首を傾げる。

 あれ? ひょっとして、伝わってない?

「あの、あれだよ……。鴇ちゃんと色々暴露しちゃったじゃん?」

「ああ……。あれかよ。別に気にしてないよ」

 そう言った吉永さんは、本当に少しも気にしていない様子だった。

「え? じゃあ、やっぱり怒ってなかったの?」

「そりゃ、多少は腹立ったけど。あんなのいつものことだろ」

 眉をハの字にして、やれやれと首を振る吉永さん。

「ひょっとしてお前。それ気にして今日一日つけ回してたのか?」

「そ、そうだけど?」

「いつも人目も気にせずに言い寄ってくるくせに、そんなこと考えてたのかよ」

 いやいや。あれ、割りと勇気要りますからね? 俺は相当な覚悟を持ってやってるからね?

「まあ。別にそんなに怒ったりしてないから。……というか、謝れたのにびっくりだよ」

「そ、そっか」

「そういうことだよ。じゃあな」

 そう言って吉永さんはこちらに向かって手を挙げた。

「うん。また明日」

 俺はその後姿に手を振って見送った。

 部室の扉が閉まり、足音が遠ざかっていくのを確認した後、俺は肺の中の空気を一気に吐き出した。

 安堵が押し寄せ、全身から力が抜けるのを感じる。

 結局、最初から最後まで俺の勘違い。取り越し苦労だったわけだが、吉永さんと部室で一緒に過ごせたので結果オーライである。

 それにしても。

「かーわいかったなぁ……」

 俺は思わず独り言ちた。

 まあ、可愛いのは前から変わらないんだけど。新しい一面が見られたし。

 あのときは悶え死ぬかと思ったわ。

 これが噂によく聞く『惚れ直す』ってやつか。まさか高校生のうちに経験できるとは。えらいこっちゃ。

 このまま順調に仲良くなれれば、そのうち一緒に下校したり休日に遊びに行けるようになったりする筈だ。

「ん……?」

 俺はそこで違和感に気が付く。何か重要なことを失念しているような。

「ああああああぁぁぁぁぁぁああ!!? 一緒に帰ればよかったぁぁああああああ!!」

 俺はその場で頭を抱えてうずくまった。

 本当に馬鹿だ。

 絶好のチャンスだったじゃねえか。「俺も部活無いんだ、一緒に帰ろう」と口にするだけで、吉永さんと一緒に下校というビッグイベントに突入できたというのに。

 非常に勿体無いことをしてしまった。

 俺の部活が休みと吉永さんがバイトの日が被る日は、次いつになるのだろうか。

 少なくとも、かなり先の話であることだけは間違いなかった。

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