1-4

「えー……と。解りません……」

 お約束かよ。

「おい、山田……。この問題は初歩中の初歩だぞ」

 黒板の前に立たされた俺は、担任兼数学教諭の田中先生に睨み付けられている。

 この人、デカいし顔の彫りが深くておっかないんだよな。

 先生には一年のときから数学を教えてもらっていて、補習など何度も大変お世話になった。

 そして、どうぞ今年もよろしくお願いします。ガンガン迷惑掛けます。

「お前……。この問題ができないのはさすがにマズいぞ」

「奇遇ですね、先生。俺もそう思います」

「よし。後で佐藤先生に報告しておく」

「ほんとにすみませんでした。明日までに復習しておくのでどうか勘弁してください」

 佐藤先生、というワードが出た途端。俺はすぐに腰を折って頭を下げた。

 佐藤先生というのはサッカー部の顧問で監督である。

 あのジジイははっきり言ってやべえ。もう怖いとか厳しいとか、そういうレベルじゃない。モンスターだよ、あれは。

「言ったからな? 明日までに復習してこいよ」

「はい」

「よし。席に戻れ」

 さて、困ったことになったぞ。

 自慢じゃないが、俺は数学の成績がめちゃくちゃ悪い。一年のときは毎回赤点スレスレだったからな。一日やそこらでどうにかなる問題じゃない。

 大体、なんだよ二次関数って。あんなお山の頂上の座標を求めて何になるってんだ? 理解に苦しむぜ。

「あんな問題もできないなんて、あんたはほんとに馬鹿ね」

 見ると、嘲笑を浮かべた雲雀がこっちを見ていた。相変わらず腹立つ顔してんな。

 お前はいちいち俺を馬鹿にしないと気が済まないのか?

 つか、俺とは関わらないんじゃなかったのかよ。

「先生! 私が代わりにやります」

 その雲雀が手を高々と挙げて、クラス全体に聞こえる声で宣言する。

「!!」

「お、そうか。じゃあ頼む、新田」

 馬鹿な。自殺行為だ。

 雲雀、俺は知っているぞ。数学の補習のとき、お前は毎回俺の隣に居たじゃないか。

 俺より点数低い奴が居るからまだ大丈夫だな、って安心したのを覚えてるから間違いない。恥をかく前にやめておけ。

 だが、俺の心配とは裏腹に躊躇なく黒板にチョークを走らせた雲雀。

 みるみるうちに方程式が解かれて行き……。

「先生、出来ました」

「正解だ」

 おおーっ、と感嘆の声が上がり、クラスが拍手に包まれる。

 なん……だと……?

 一体どんなカラクリを使ったっていうんだ。。

「ふっふーん。どうよ、花鶏。これであんたが学年最下位よ」

「抜け駆けしやがって……。許さん」

 戻ってきた雲雀が得意げな顔で俺を見下ろしてくる。

 ビンタしたい、そのドヤ顔。

「はぁ……」

 もういいよ。お前は一生数学と仲良くしてろ。俺は吉永さん眺めて削られたHPを回復するから。

 左隣に目を向けると、授業を受ける吉永さんの姿。彼女は頬杖をついて、退屈そうに自分の毛先を弄んでいた。その気怠げな表情も色気があって大変麗しいでござる。

 ところで今、ふと思ったんだが。

 吉永さんは勉強できるんだろうか。

 失礼を承知で言わせてもらうけど、全然できなさそうだ。見るからにギャルって感じだし。

 髪の色が偏差値の低さを物語ってる。

 でも、補習では一度も見かけたことない気がする。補習自体もサボっているのだろうか。在り得ない話ではない。

「おい」

「えっ、あっ、ごめん」

 いつの間にかこっちを見ていた吉永さんが鋭く指摘してくる。

 やっべ、また怒られるかも。と思って身構えていたのだが。

「お前、今の問題ができないのはさすがにマズくないか?」

「ぅえ?」

 予想していなかった台詞に間抜けな声が出る。

「二年からは三次関数も出てくるし、もっと焦った方がいいよ」

「いや、でも……。何が何やらさっぱりで……」

 数式がゴチャゴチャしてて、頭が痛くなってくるんだよな。XとかYとか、二乗とか。さっぱり解らん。

「仕方ないな……」

 彼女は溜息混じりに、身体の正面をこちらに向けて椅子に座り直した。

「ノート、見せろ」

「え?」

「いいから」

 言われるままに、俺は今日書き込んだページを開いて吉永さんに見せる。彼女は身を乗り出して覗き込んできた。

「……ッ!!?」

 途端に動悸が激しくなった。

 いつもより近い位置に好きな女の子がやってきて、俺は思わず息を呑んでしまう。

 零れる金髪を耳にかける仕草。それによって生じたシャンプーの良い香りが俺の鼻孔をくすぐっていく。

 ノートに落とす目は伏せがちで、長い睫毛がいつも以上に強調されて色気がエライことになっていた。

 そしてなにより。黒いパーカーのファスナーの間から見えるおっぱいが、大きいです。

「ふんっ!」

 煩悩を払うため、俺は自分の額を思いっ切り机の角に叩き付けた。

「何やってんの……」

「いや、気にしないで」

 ふう……。危うくエロい目で吉永さんを見てしまうところだったぜ……。

 それだけはダメだ。俺の愛は純粋で一点の穢れも無いのが売りだからな。

「お前、ノート汚いな。もうちょっと綺麗に書けないの?」

 吉永さんの一言で現実に戻される。そうだ、今は授業中だった。

「それは……、見逃してくれると助かるかな……」

「ふーん……。お前、数学嫌いだろ?」

「え? まあ、嫌いだけど」

「ノート見た感じ、途中の式を省いて結果だけを求めようとしてる。数学ができない奴の典型的なタイプだな」

「は、はあ……」

「まずは焦らずに時間掛けてやってみろよ。途中の式を何度かに分けて書けば、それだけでかなりできるようになるから」

「そう言われても……。どんな途中式を書けばいいか、わかんないや」

 俺の発言に、吉永さんは露骨に顔をしかめた。

 しかし彼女はそこで説明を投げ出すわけでもなく、シャーペンを取り出して俺のノートに何やら書き込み始める。

「例えば……、こうやって同じ項をまとめるとか……。カッコで括ってみるとか……」

 実際に書いて説明してくれる。なるほど、解りやすい解説だ。

 それに意外と言っては失礼だが、達筆でびっくりした。

「ああ……。それなら俺にもできそうな気がする……かも」

「これでできないなら、今年の進級は諦めた方がいい」

「そんなに……?」

 俺もいよいよ留年を体験することになるのか。まあ、人生で一回は体験しておいた方がいいかもしれないな。

 って、言ってる場合か。

 最近は少し、というよりかなり学業を疎かにし過ぎた。部活やバイトをあまり言い訳にはしたくないが、家に帰ると何もしたくなくなって、予習復習をやらない。

 いつまでもこのままだと、そのうち痛い目を見そうだ。

 なんとか打開策を考えたいものだが。

「!」

 そうだ、名案が閃いたぞ。

 吉水さんに勉強を教えてもらえばいいんだ。

 彼女、なんだか見かけによらず頭良さそうだし。

 時間を共にすることで急接近すること間違いなし。ついでに勉強も見てもらえる。一石二鳥とはこのことだ。

 目的の優先度が逆になっている気がするが、そんな細かいことはどうだっていい。

 そうと決まれば早速。

「吉永さん、俺に勉強教えてくれない?」

「は? 嫌」

 バッサリかよ。

 そっかー。嫌かー。嫌なら仕方ないよね。

 きっと今の俺は捨てられた子犬みたいな顔してるんだろうな。

 かなり心に刺さったけど、致命傷には至らなかったみたいだった。俺は日頃から訓練されているからな。並みの人間じゃ死んでるぜ?

「残念だったわね、花鶏」

 後ろから必死に笑いを堪える雲雀の声。こいつは本当に俺の不幸が大好物みたいだ。

「どうしてもって言うなら、私が見てあげてもいいわよ?」

「お前みたいな年中発情モンキーと勉強なんて死んでも御免だ」

「誰が好きな人を常に想い続けてる一途で素敵な女性ですって!?」

「言ってねえよ! どんだけ都合の良い耳してんだ。耳鼻科に行け」

 それに雲雀と俺が集まったところで、馬鹿二人行き詰まる未来しか見えない。

「なあ……」

「ぅえ?」

 このやり取りを見ていた吉永さんが声を掛けてくる。それに再び間抜けな声で応じる俺。

「長時間は嫌だけど……。授業中とか後に解らなかったとこ教えるくらいなら……。いいよ」

 眉をハの字にして、『仕方ないな』といった表情で進言してくれる吉永さん。

 好きーーーー!!

 あ、間違えた。

「ありがとう!」

「金糸雀ちゃん!? ほんとにいいの!?」

「じゃあ、雲雀も一緒にするか?」

 ダメだ。じゃじゃ馬はしゃしゃり出てくるんじゃねえ。

「いやいや! こいつはもうびっくりするくらい賢いから必要ないんじゃないかな?」

「ちょっと!?」

「わかった。これからは聞いてくれていいよ。あたしの解る範囲ならちゃんと答えるから」

「うん。よろしくお願いします」

 頬が緩みまくりの俺。不服そうな雲雀と相変わらず仏頂面の吉永さん。

 まさか本当に好きな人から勉強を教えてもらえることになるなんて。すげえご褒美だな。

 やっば。幸せマックスだわ。

 明日からの授業も楽しみだ。授業すら楽しみになるなんて、やっぱり恋の力って凄いぞ。

 きっとこれから俺の成績は鰻登りに上がっていくに違いない。

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