1-2

 教室に人影はまばらだった。

 おそらく皆、新入生の勧誘に精を出したり、友人との会話に花を咲かせたりと忙しいのだろう。こんなに早い時間から教室に居る奴はあまりいない。

 俺は黒板に貼られたプリントを見る。そこには生徒の最初の席の位置が書かれていた。

 さて、席はどこかな……。って。

 うおおおおおおおおおお!!?

 それを見た俺は心の中で雄叫びを上げる。

 新学期最初の生徒の席は、男子と女子の列が交互に並び、前から名前の順になるように配置されている。

 これは教師や生徒がお互いの顔と名前を憶えやすいようにと取られる措置だ。

 そして、俺と吉永さんは男女それぞれ出席番号が最後。

 何が言いたいか分かるかね?

 そう、つまり。俺と吉永さんは席が隣同士というわけだ。

 これ以上の幸福があるだろうか。いや、ない。

 俺はお花畑をスキップで駆け回るくらいのテンションで、自分の席に向かう。

 思わず目を細めるほど眩しい朝日が教室の窓から差し込み、机に反射して天井を照らしていた。開いた窓から流れ込む春風が木々の匂いを運び、俺の鼻孔をくすぐる。

 教室から見える中庭の桜はときどき大きく揺れて、花弁をまるで吹雪のように散らした。

 俺の視界の端に、一人の少女が映り込む。窓際の席に一人静かに座り、日の光に照らされながら、本に目を落とす少女の姿。

 後光が差す彼女を見て、俺は思ったね。

 天使か!?

 いや、人か……。

 まるで絵画のような、人と景色が見事に一体化した場面。その美しい光景を目撃した俺は、思わず息を呑んだ。

 着席した俺はぼんやりと吉永さんを見つめる。

 話し掛けようと思っていたのだが、この風物を壊したくなくて。ただ黙って、その綺麗な横顔を眺めていた。

 眼福眼福。

 時折、「睫毛長いな」とか「何読んでるのかな」とか考えていると。

 不意に吉永さんが視線を上げた。

 溜息の後、あからさまに顔をしかめて俺を一瞥。視線が交錯する。

「さっきからなんでこっち見てんの?」

「いや……。綺麗だなぁ、って思って」

 一瞬の間。

「……気が散るんだけど」

 更に目付きを鋭くした彼女が、射るような視線で俺を睨み付ける。眉がいつも以上に吊り上がり、眉間には薄く皺ができていた。

「俺のことは気にしなくていいから。どうぞそのまま、続けてください」

「あたしが気にするから……。やめてくれ」

「……はい」

 拒絶を受けた俺は素直に引き下がった。

 吉永さんがやめろって言うのだから、仕方がない。彼女が嫌がることを続けて、嫌われるのは耐えられない。

 もしそんなことになれば、俺はその場で首を吊る。

 後ろ髪を引かれる思いに駆られながらも、俺は彼女から目を逸らした。

 そうだ、気を紛らわせる為に何か別のことをしよう。

 思い立った俺は鞄から先日買ったばかりの新しい教科書を取り出す。それをパラパラめくったり、ペンで裏表紙に名前を書いたりしてみた。

「…………」

 しかし、妙にそわそわして落ち着かない。

 せっかく隣に吉永さんが居るのに、お喋りしたり見つめたりできないなんて耐えられない。無理ゲーだよ、これ。

 ちょっとだけなら、いいよね……。

 ――ちらっ。

 目が合う。

「あ……」

 ゆっくりと逸らした。

 うん。めっちゃ睨まれてたね。

 なんていうか、凄い殺気のようなものを感じたのは、たぶん気のせいじゃない筈。命の危機を感じたね。

 ま、まあ。今のは事故みたいなものだろう。では、改めて。

 ――ちらっ。

 目が合う。

「…………」

 今度はその鷹のような眼光を確認するや否や、すぐに視線を逸らした。

 隣からの威圧感が、俺の肌をピリピリと指す。冷や汗がだらだらと、滝のように流れた。

 こ、殺される……。

 ちょっと調子に乗り過ぎたかもしれない。吉永さんと同じクラスになれた嬉しさで、つい暴走してしまった。

 テンションが上がってくると色々とやり過ぎてしまうのが俺の悪い癖だ。

 気を付けているつもりなのだが、これがどうもセーブできない。特に、相手が意中の相手となると尚更だ。

「おい……」

 横から絶対零度に冷えた声。

「はい」

「あたし、やめろって言ったよな」

「はい」

「それに。あんまりジロジロ見るなって、前にも何度か言ったよな」

「はい」

「で? どういうつもり?」

「すみませんでしたっ!」

 俺は自分でも驚くほどの超スピードで土下座した。

 やべえな。世界狙えるぜ、このキレと速さ。

「今日は酷くないか。いや、今までも相当だったけど……」

 吉永さんは大きな溜息をついた。

「大体、用があるなら話し掛ければいいじゃん。なのに特に何も言うことなく、じっとこっち見てさ。こっちの身にもなってくれない?」

 怒ってるというより、どこか呆れた様子の吉永さん。

 吉永さんの言いたいことは分かる。うざいもんな山田花鶏って男。分かるよ。

 だが、吉永さんは俺のことを何も分かっちゃいない。

「そう言う吉永さんも、俺のこと全然考えてくれないじゃん……」

「はあ……?」

「吉永さんと同じクラスになれて、席も隣になって……」

 俺は膝の上で震える手を握り締めた。

「せっかく合法的に近くから見つめられるようになったのに……!」

「さらっと何言ってんの」

「それなのに……。見るな、なんて……。それがどれだけ酷なことか……!」

「聞けよ」

「吉永さんの横顔をガン見してるときこそが、何より至福の時なのに……!」

 真っすぐに吉永さんを見つめる。

「それができないなんて……。俺には耐えられないッ!!」

 たぶん俺は今、鬼気迫る表情で彼女を見ていると思う。声を大にして愛を叫んだ俺は、息も絶え絶えに肩を激しく上下させていた。

 伝わった? 一途を通り越して、もはやストーカーのそれに近い俺の重い愛。その一部でも貴女に届いたなら、幸いです。

 俺の熱弁に対して、吉永さんはゴミでも見るような目で俺を見下していた。

 その表情もなかなか良い、可愛い。けど、できればあの雪の日に見た可憐な笑顔の方が見たいかな。あっちの方が凄く魅力的だと思うよ、俺は。

「そっか……。じゃあ仕方ないな」

 彼女は自分の筆箱に手を突っ込むと、そこからおもむろに一本のシャーペンを取り出した。カチカチとノックの音が数回。

「目を、潰す……!」

「ごめんなさい! 逆ギレして本当にごめんなさい!」

 俺の反応は速かった。

 膨大な殺気を感じ取って、取り出された凶器の存在を認識すると同時に、額を冷たい床に擦り付ける。

 しかし許しを乞いながらも俺は、いつもよりしつこく食い下がった。

「でも……、でも! 少しだけでいいので俺に癒しをください! せめて五秒。いや、三秒だけでいいから! その綺麗な横顔を眺めさせてくださいッ!」

 自分で言っておいてなんだけど、今の俺ってクソ気持ち悪くないか?

 この後、新しいクラスメイトから「キモ男」の烙印を押されるだろう。だが、覚悟はもうとっくに出来ている。その程度のことで俺が怯むと思ったら大間違いだ。

「それだけで俺は満足なので! え、と……。欲を言えばお話しとかもしたいけど……。でも当分は文句言わないから! どうか。何卒……ッ!」

 長い沈黙。

 時間にすればおそらく数秒なんだろうけど。俺には無限のように感じられた。

 その沈黙を破ったのは長い溜息。

 俺は恐る恐る顔を上げる。

「わかったよ……。だからもう大声で話すな、うるさいから……」

 仕方ないな、と言った風に口を開く吉永さん。

 彼女は心底面倒くさそうな面持ちで後頭部を掻いている。

「よ、吉永さん……!」

「その代わり、ちょっとだけだからな。あと、できるだけ控えるように気を付けて。あたしも気にしないように努力するから」

 俺は物凄い勢いでブンブン首を縦に振る。

 そういう、なんだかんだ言って優しい所、好きです。

 たぶん今、俺の後ろにはお花がたくさん咲いてるんじゃないかな。

「じゃ、この話はもう終わり。そろそろHRも始まるし、お前も席に座ったら?」

「う、うん」

 俺から視線を逸らした吉永さんは、椅子に座り直して再び持っていた本に目を落とした。

 それを見た俺も床から立ち上がって椅子に座る。

 膝が汚れていたので手で埃を払った。

 手に着いた埃を息で吹き飛ばす。宙に舞った埃が重力に従って落ちるのを見ながら、俺は改めて吉永さんとの会話を思い出して。

 ――幸せ。えへっ。

 ニヤニヤが止まらねえ。

「…………」

 おい、そこの女子。気持ち悪いものを見るような目で俺を見るな。

 勘違いするなよ、俺は変態じゃない。恋する乙女だぞ。

「どうしたのよ? 朝からそんな気色悪い顔して」

「ん? なんだよ、雲雀か」

 目の前に立つ少女が俺の顔を覗き込んでいた。

 彼女の名前は新田にった雲雀ひばり俺の幼馴染である。

 豊かで柔らかい長髪は絹のように滑らかで美しく、大きくてつぶらな瞳とパッチリ二重の瞼が印象的な彼女。顔にはまだあどけなさが残っており、それに伴うように体格も小柄で胸部の膨らみは心許ない。

 そしてこれは本人にとってコンプレックスらしく、指摘するとあからさまに不機嫌になる。

 だが、その小柄な体格を気にしている所とか、小動物っぽい所が可愛いと男子生徒の間では絶大な人気があった。

 俺は見慣れてしまったので何とも思わないが。

「つか、気色悪いとはご挨拶だな。開口一番それはないだろ」

「そう? 思ったことを口にしただけだけど」

 あと、俺にだけかなり当たりがキツい。

「今日はなんだかご機嫌斜めだな」

「いつも通りよ」

 雲雀の頬を膨らませて俯いたのを見て、俺はピーンときた。

「あれだな? さては今年も夜鷹とクラスが離れて落ち込んでるんだな?」

「ばっ……! ち、違うわよ!」

 雲雀は顔を真っ赤にして反論する。なるほど、図星か。

 相変わらず、カップル二人揃って分かりやすい奴らだ。

「残念だったな。でも、俺が居るからいいじゃんか」

「あんたなんて馬の糞以下よ」

 なんだよ、それ。肥料にもならないってか。地味に傷付くぞ。

「あんたとは関わらないから!」

「じゃあ、ボッチ確定じゃん」

「はあ!? 友達くらいちゃんと居るし」

 おいおい。冗談はその胸部の薄さだけにしてくれよ。

「ね、金糸雀ちゃん?」

「――ッッ!!?」

 今、なんつった?

「そうだな。今年もよろしく、雲雀」

「んんっ!!?」

 なん……だと……。

「お前ら、知り合いなの……?」

「そうよ。去年一緒のクラスだったし」

「席も近かった」

「知らんかった……」

 まさか二人が友好関係にあったとは。

 ちくしょう、雲雀の奴。一年間も吉永さんと一緒の部屋で過ごしてたのかよ、羨ましい。

 しかも割と仲良さげじゃねえか。

 実際、雲雀と会話しているときの吉永さんの表情はいつも以上に柔らかい。その微笑み、ほんの少しでいいから俺にも向けてくれませんか?

 くそ……。いいもん。俺は吉永さんと隣同士だもんね。これから一年かけて仲良くなるんですからね。

 そうなったら雲雀、お前は正真正銘のボッチだ。ざまあみろ。

「そうだ!」

 妙案を思い付いたぞ。

 知能が猿以下の雲雀のおかげで吉永さんの態度も軟化したし、これは一気に距離を詰めるチャンスなのでは。

 勇気を出せ、俺。「勇気を出して一歩踏み出すことが、恋の成就への第一歩」って偉い人が言ってたぞ。名前は思い出せないけど。

「俺も金糸雀ちゃんって呼んでいい?」

 よく言った!

 これで意中のあの娘と急接近――、

「無理」

「キモい」

 ――できないんだな、これが。

 ええ、薄々気が付いていましたとも。悲しくなんてないぞ。

 だから今、俺の頬を伝ってるのは涙じゃなくて汗ですよ。


 ――キーン、コーン、カーン、コーン。


 HRの始まりを告げるチャイムが教室に響き渡る。

 どうやら教室に来てからかなり時間が経過していたようだ。

「あ、そろそろ席に戻らないと」

 予鈴を聞いた雲雀が呟く。

 おう、さっさと消えろ。

「じゃあね、金糸雀ちゃん」

「じゃあな」

 吉永さんは雲雀に向かって控えめに手を振った。

 ああ。別れ際の挨拶も可愛いな。俺もいつか手を振られてみたい。

「花鶏。金糸雀ちゃんに変なことしたらダメだからね」

「しねえよ」

 俺たちに別れを告げた雲雀は自分の席に戻っていった。

 そう、に。

「…………」

「私、ここで監視してるから」

 は? 

「怪しい動きを見せたら殴るからね」

 冗談は顔と胸の無さだけにしてくれません?

「はぁ……」

「でかい溜息ついて頭抱えないでくれる!? 私だってあんたの隣は不本意よ!」

 雲雀、お前はそうやって俺の邪魔ばかりするんだな。

 別に恩を着せるつもりはないが、俺はお前と夜鷹の間を取り持ってやったってのに。

 もう少し、俺の恋を応援してくれてもいいんじゃない?

「あー……」

 先ほどまで上がりに上がっていたテンションがドンドン下がってくる。

 大丈夫か? 俺の大事な一年間。

 いきなり雲行きが怪しいことになってるんだが、この先うまくやっていけるのだろうか。

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