最終章

第37話

「田沢さんじゃないっすか。お元気ですか?」


田沢はふりむいた。見慣れた青い姿。そこにはおどけてサッと敬礼してくるベテラン、永島祐二の姿があった。永島の気さくな挨拶を受けて、田沢は恐縮して頭をさげた。

なんと言っても、今は若いヤマダ・シゲヒサにトップの座を譲ってしまっているものの、かつては超日本の頂点に君臨した男だ。

まだまだベテランとしての存在感は健在である。


「田沢さん、もし情報を握っていたら、教えてくださいよ」


「何のことでしょうか」


きょとんとする田沢に、永島は片目をつぶってみせる。


「俺が聞くって事は、ほとんど決まってるでしょ」


「ああ、甲山さんのことですか」


永島は義理堅く、また面倒見がいい男だ。かつて不穏な退社をした後輩のことを今でも心配し、こうして情報を求めてくるのだ。


甲山サトル――。


かつてリングの上で平然とブック破りをした男。

その試合を思い出すだけで、体温が一度くらい上昇するように感じるのは何故だろう。

その強さ。その試合のすさまじさ。

今思い出すだけで、ある種の感慨がある。

しかし、その甲山はもう超日本にもどることはない。


彼は決して許されないブック破りを犯してしまったのだ。

あの試合も本来、行なわれる予定ではなかった。

練習中のケガが原因で、超日側のガチンコ経験者の数が不足してしまったのだ。

そこで自ら辞表を提出し、ローズとガチンコをするために出て行った甲山を、わざわざ呼び戻して行なわせた試合だった。

超日本の幹部としては、単なる人数あわせ以外の用途を、甲山に見出していなかった筈である。

しかし、甲山は変貌を遂げていた。

いったいどんな修行をしたら、ああなるのか。

全身の筋肉はかつてのヒョロヒョロとは程遠く、筋肉の塊のように逆三角形に鍛え上げられていた。その重厚さ、純粋な筋量は現在の超日のトップの1人、屋根端比呂氏やねはしひろしを上回っていた。

それでいて豹のような機敏さ、しなやかな動きは尋常ではなかった。

それまで次々と超日本のレスラーを叩きのめしてきたライアン・クレイジーを、MMAで子供扱いにしてしまった技量。

つくづく永久追放はもったいなかった、と田沢も思う。


その後、再び甲山は海外へと姿を消し、その行方はようとして知れなかった。

その姿が知れたのは、彼が日本でライアンと潰し合いをした5年後。


甲山は、海外で新団体を設立したのだ。

その名も、NWF――ニュー・レスリング・ファウンデーション。

禁じ手ナシの完全決着ルール。要するにブック無しのプロレスをやる、という団体だ。

一体、ただの無名のチンピラレスラーに過ぎなかった甲山が、どこで団体を設立するような巨額の運営資金を用意できたのか?

誰も分からない。


ただ田沢は、こんな噂を耳にした。

非公開の地下プロレスで、地下世界最強の相手と、甲山は伝説的な死闘を演じた、という。

その結末はどうなったか。

そこまでの情報は入ってこなかった。

ただ、その仕合いにいたく感動した大勢の富豪から、巨額の資金援助の申し出を受け、甲山は新団体設立にこぎつけたという。

あまりに非現実的な話なので、マスコミは誰も本気にしなかったが。


海外で一介のレスラー上がりの日本人が成功するわけがない。

しょせん、単なるインディー・プロレスに過ぎないであろう。

そう日本のプロレスマスコミはたかをくくっていたが、この団体が最初にマッチメイクしたカードを見て、誰もが一様に仰天した。


○甲山サトル vs ヒカエロ・クレイジー


○リチャード・アッフィルーズ vs エメラリオル・ホードル


○ザ・モンスターマン vs ロメオ・ロボコック


○ビクトル・ハシミコフ vs バッファロー・ノガイラ


堂々たる顔ぶれである。

かつてプロレスラーハンターとして名を馳せた、ロメオは言うに及ばず、MMA界では重鎮というべきファイターが勢ぞろいである。

特にヒカエロは「生涯無敗」という肩書きを持ち、生きながら伝説となったかのような人物である。

日本では3億のギャラを積まれても、試合をしなかったという男だった。


その男を再び、戦いのマットに引きずりだしたのだ。甲山のバックにどれ程の大物がついたのか見当がつかない。


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