第36話

その変化を敏感に察知したのが、闘う相手である甲山だった。

甲山はゆっくりと、ことさらゆっくりと歩を進めた。

観客席からは、

「回復する時間を与えるな!」


との野次も聞こえる。だが甲山はどこ吹く風だ。

リチャードもまた同様だった。

彼も微動だにせず、甲山が接近するのを待っている。

二人は、互いの拳が届く被弾確実の間合いで対峙した。


しばしの睨み合いの後、先に動いたのはリチャードだった。

大きなバックスイングで手刀を振るう。

凄まじい打撃音とともに、逆水平チョップが甲山の胸板に炸裂した。

すさまじい音がした。まるで空気が裂けるような。

甲山は懸命にダウンしないように後方へ下がって勢いを殺す。

なんとコーナーマットの近くまで後退していた。


甲山とて黙っているわけにはいかない。

リチャードの目前に接近する。彼は腕組みをしたまま佇立している。

まるで撃ってこいと催促をしているようだ。

甲山は跳躍した。

超至近距離からの、伸びのあるドロップ・キックが顔面に炸裂。

さすがのアッフィリーズもこれは効いたようだ。

のけぞり、ふらふらと二、三歩後ずさったが、倒れない。


粉砕者は下からエルボースマッシュ。

これは効いた。

甲山の顎に炸裂し、ロープまで吹っ飛ばされる。

しかし甲山は、ロープを掴んでダウンを拒否した。


その距離から、甲山は大きく助走すると、リチャードの顔面めがけて、跳び膝蹴り――ジャンピングニーアタックを炸裂させる。

ぐらりとするが、リチャードは倒れない。


今度はリチャードが逆水平を放つ。

後ろへと弾かれるが、倒れない。

甲山は全体重を片足に預けて、浴びせ蹴りを放った。

予期せぬ攻撃に不意をうたれたか、リチャードも数歩下がった。


再度リチャードはエルボースマッシュ。

甲山はふっとぶ。だが、無論倒れない。口の端の血をぬぐい、不敵に笑った。

アッフィルーズも呼応するように笑った。


――本当のプロレス。


一切の手加減抜きのプロレス技の迫力に、観客は圧倒されて声もない。

テレビで放送されているプロレスは、技を放つ際、大きくマットを踏んで、効果音を出している。

そんな既存のプロレスとは、迫力が違う。スケールが違う。

――そして魂が違う。

なにより、どちらも命を賭しているのだ。

リアルな、ただ己の持つ技の破壊力だけで相手をねじ伏せようとする必死の闘いが、観客を静かに、だが確実に魅了していた。

プロレスはこんなにも烈しい。

厳しい。

そして楽しい。

二人は笑みを貼り付けたまま真剣なプロレスを展開している。


これでどうだ。

これで倒れないのか。

これでどうだ。

ふたりは我慢比べをするように、ひたすらに技を繰り出す。

リングの上で、リチャードは恍惚の瞬間を迎えていた。


ママ、ここに、壊れないヤツがいたんだ。

俺が全力を出しても壊れない、本物がいたんだ。

ママの声が、リチャードの脳裏にこだまする。


「努力もしないで、なんでさっさと諦めるんだい?」


そうだ、ママのいう事はいつだって正しかった。

俺はヤワなもやしっ子しかいねえ、プロレス界に見切りをつけ、地下世界のプロレスにも愛想を尽かしていた。誰も俺の相手なんていなかった。ずっとだ。

単にマネーをもらう為に人体を破壊する。

それだけのためにリングに上がり続けていた。


 「諦めるならとことん一生懸命やってからだよ」


ありがとうママ。俺は初めて本当の好敵手に出会えたんだ。

とことん技を出し合い、競い合える相手を見つけたんだ。


観客は驚愕に目を見開いていた。

リチャードの両眼に光るものがあった。

それは汗とともに滂沱とリングに雫を落としていた。

いつ果てるとも知れぬふたりの戦いは、まるで輪舞曲のように続いていく……。

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