第35話

「おい、来ないならこっちから行くぜ」


先程から、まるで微動だにしない甲山に業を煮やしたか。

アッフィルーズは突進してきた。

彼の手が甲山を掴んだと思った矢先、リングが鳴った。

仕掛けた側の、粉砕者が投げ飛ばされたのだ。


「今の技は……」


リングサイドのヘルナンデスが呟く。


「なによ、あの技は?」とアレクサ。


「あれは古典中の古典、アームドラッグだ。アイリッシュ・ホイップとも呼ぶ」


まるで合気の技のように相手の突進力を受け流し、投げる。

そのままリチャードの身体は一回転した。


「て、てめえ……」


すぐに立ちあがったアッフィルーズにダメージは感じられない。

怒りに任せて再び突進し、再び投げ飛ばされた。

またもや、アームドラッグだ。背中から着地するリチャード。


「ふ、ふざけくさりやがって!!」


と、彼が立ち上がった瞬間である。

今度は逆に、全速力で甲山がダッシュで駆けてくる。

何を仕掛けてくるつもりか分からず、反射的にガードを上げたアッフィルーズは、脚に衝撃を受け、前のめりにダウンした。何が起こったのかわからない。


「い、今のは、足への低空ドロップキックだ!」


ヘルナンデスはマットを叩き、興奮しっぱなしだ。

甲山が勢いに乗り出した。こうなれば甲山は止まらない。


「ファック! こんなもんが効くか!!」


うつ伏せの状態から、憤怒の形相で立ちあがったアッフィルーズだが、甲山の姿が消えている。リングの下にでも逃げたか? 


「――野郎、どこへ隠れた!?」


「あんたの背中だよ」


その声で、リチャードが弾かれるように振り向いた瞬間。


「だっしゃあああァァ!!」


裂帛の気合とともに、必殺の一撃を首筋に叩き込んだ。

それは超日本プロレスの創始者であり、かつて地上最強と謳われた男、グレートニオ武蔵が開発した必殺技、延髄斬り。

それが、粉砕者の急所を正確に打ち抜いた。

食らったアッフィルーズの動きが静止した。

前後に二、三度、ぐらぐらと揺れた後、巨木が根元から切断されたがごとく、マットにダウンした。

初めて甲山が、粉砕者に痛撃を与えた瞬間だった。


「やりやがった……」


ヘルナンデスは細かく震えている。


「あの野郎、本物のまっとうなプロレス技を、この地下でかましやがった!」


「……それが、なんでそんなに嬉しいの?」


アレクサはきょとんとした顔で傍らの男を見た。

プロレスに興味のないアレクサには理解できないようだ。


「お前には甲山を理解する事はできないかもしれないな」


「なによそれ、どういう意味?」


「わからねえなら、それでいいさ」


アレクサは不思議そうに小首を傾げた。そういうヘルナンデスの顔は、どことなく誇らしげに輝いて見えたからだ。


甲山は悠然と、コーナーの片隅に身をおいた。

間違いなく、しぶとく立ちあがってくるであろう、リチャード・アッフィルーズを待ち構える。

これでよかった。このやり方でよかったんだ。

予感が確信に変わっている。

あいつはタフガイ。奴こそが、リアル・プロレスラー。

あらゆる攻撃が人間の範疇を超えている。

闘っている最中に、甲山の心には、相手に対する尊敬の念が生まれていた。

今まで闘ってきたあらゆる選手より、ヤツは強い。

生物として格が違うとさえ思う。

そうなのだ。甲山サトルがずっと胸に思い描いていたレスラーの理想形。それがリチャード・アッフィルーズその人であった。

そんな男に対し、小手先の技術が通用するはずもない。

俺はいつの間にか、プロレス技を独特にアレンジするだけの、単なる1MMAファイターに過ぎなくなっていた。

それは所詮、付け焼刃でしかない。俺はこんなふうに、プロレスラーにしかできない、ひとつひとつの技に全力を注ぐような闘い方をするべきだったのだ。


そしてやはり、アッフィリーズはむっくりと身を起こした。

しかし先ほどまでとは少し様子が違う。

何か憑き物が落ちたような、静かな顔つきになっている。

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