第34話
アッフィリーズは自分の掌の中で、徐々に甲山の動きが緩慢になっていくのがわかった。
そろそろだな。もうじき終わる。
そう考えたとき、アッフィリーズは甲山の異常に気づいた。
掌が、濡れている。
血糊だろうか。
いや違う。これは甲山の涙だ。
甲山はアイアンクローをかけられて、泣いているのだ。
アッフィリーズはせせら笑った。
(苦痛のあまりに漏らしやがったか)
そう判断したためだ。
だが、そう考えるのはあまりに早計だった。
突如、豪腕に完全にねじ伏せられていた甲山が、雄叫びをあげながら立ち上がったのだ。そして何やら日本語で吼えている。
(馬鹿なやつだ。俺の握力から脱出できるはずがない。
そんなことはとっくに理解しているものと思ったが)
しかし、彼は諦めない。
なにやら技を出すつもりのようだ。
(馬鹿が、俺に打撃は通用しないとわからんらしい)
粉砕者が待ち受ける中、甲山は大きなモーションで、その技を繰り出した。
それは左右から相手の頚動脈に、手刀を叩き込む技――モンゴリアン・チョップだった。
「馬鹿め、この距離で届くか」
そう。甲山の身体は、肘をまっすぐ伸ばしたアッフィルーズの掌のむこう側にある。
その位置からは、あまりにアッフィルーズの頚動脈は遠い。
しかし。モンゴリアンは彼の体を狙ったものではなかった。
狙いは、彼の手首そのものだった。
彼の手首に両側からチョップが叩き込まれる。
ある程度の距離が必要なパンチと違い、チョップは変幻自在であり、全身のバネを連動させる必要もない。
ただ思いきり遠心力を利し、叩きつけるだけでいい。
しかも、拳よりもはるかに当たる面積の広い手刀が、両側から叩きつけられる。
高速の連続攻撃が左右から手首を叩く。
流石にこれは効く。
いや、単純に手が痺れてくるのだ。
間断なく執拗に叩き込まれるモンゴリアン・チョップの嵐。
これには鍛え抜いたリチャードの豪腕でもたまらない。
乾いた音が響く。手首が痺れ、頭部の位置がずれる。
「ちいっ!」
ついにこめかみの位置から指がすべった。
粉砕者は、舌打ちとともに手を離した。
ようやく距離が開いたが、甲山の圧倒的不利が変わった訳ではない。
相手の攻撃はすべて人間離れしており、一撃必殺の破壊力を持つ。
逆に甲山の攻撃はすべて粉砕者には通用しないのだ。
しかし、観客はこのリング上の微妙な変化を敏感に嗅ぎ取った。
いや、甲山の雰囲気が変わったといっていい。
馴染みの空気――こいつは何かとんでもないことを仕出かすのではないかという、甲山の試合につきまとう、あの独特なムードが戻ってきていた。
「おい、俺を馬鹿にしてるのか?」
ドスの利いた声でアッフィルーズ。
「いや、別に?」
「じゃあ、その顔はなんだ」
「――顔?」
つるりと自分の顔を撫でた。なるほど。
甲山は指摘されるまで気づかなかった。
おのれの顔が笑っている事に。
別に気が触れた訳でも、やけくそで笑った訳ではなかった。この怪物を前にして、ようやく彼は自分自身が何者かを悟ったのだ。
そうだ。俺はプロレスラー。
プロフェッショナルのレスラーだ。
不思議なことに、そう意識しただけで、あらゆる雑念や葛藤が消えていく気がした。
リング上に不純物は要らない。
意識が澄んでいく。
そうとも、俺はプロレスラー。
いつのまにか、俺はプロレス技に総合の技術を付け足すことで、先鋭的な何かを創り出している錯覚を起こしていた。
そんな小手先の物は通用しないと、この怪物は身をもって教えてくれた。
そうだ。俺は、もっと純粋でいいんじゃないか。
もっと原始的でいいんじゃないか。
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