第33話

彼の脳裏にくりかえしくりかえし、壊れたレコードのように何度も鮮明に浮かぶ映像があった。

それは在りし日の自分。

黒澤嘉明から肩を抜かれ、痛みと惨めさと悔しさで、涙にくれた日。

彼は黒澤を追いかけ、弟子入りを志願した。

「うるせえ」と蹴倒された。

甲山は、涙と泥でぐちゃぐちゃになった顔面を大地に叩きつけた。


「頼む、俺を強くしてくれ!」


何度も断られ、何度も頼んだ。


「頼みます! 俺を強くしてくれ! 俺は負けたくねえ。俺はもう誰にも負けたくないんだ!」


涙まじりに絶叫したあの日。

晴れて入団を果たし、地獄のシゴキを受けた道場での生活。

ヘドを吐き、血の小便垂れ流しても、必死で耐えた。

誰にも負けるつもりはなかった。

そのうち他のレスラー仲間は嘲笑するようになる。


「あいつは試合にも使えない技を覚えてどうするつもりなんだ 」


「プロレスラーが強くなっても、どうせ年数重ねていけば、単なるジョバーになるだけだぜ。くだらんことはやめろ」


「そうそう、それよりもっと技を受ける練習をしろ」


こういう声に対し、 甲山は激しく噛み付いた。


「なぜだ、俺は強くなりたくてプロレスラーを目指した。

レスラーが強くなってなにが悪いんだ!」


そんな調子で試合中も危険な技を仕掛けそうになったり、威力のないハンパな技にはバンプもとらない。そんな甲山のシビアな姿勢は、いつしか自分を孤立させていった。

甲山のストイックすぎる態度に、先輩の永島は


「もっと周囲と協調しないとプロレスは成立しない。妥協するんだ」


と忠告したが、甲山の意思は揺るがなかった。


彼がまだ子供のころ、親父は蒸発した。

母親は女手ひとつで彼を育ててくれた。

だが、彼女は元から丈夫ではない身体だった。それに加え、甲山のために無理して時間外労働を続けた。みるみる痩せていく母を見て、まだ子供だった甲山はなにもできなかった。


「サトル、心配いらないから!」


それが母の口癖。だが、もっともっと心配すべきだった。

過労のあまり入院した母は、若くして死んだ。三十六の若さだった。

――天涯孤独。

彼は親戚の家に引き取られたが、その家族とは一定の溝があった。

甲山は愛に飢えていた。彼はいつも、なにかに追い立てられるように苛立っていた。

闘いだけが、彼の空虚さを埋めてくれた。

どんな手段を用いても喧嘩には勝った。


強くなければ生きていけない。

弱ければなめられるだけだ。

弱肉強食、この世は強い者が勝つのだ。

彼は自分にそう言い聞かせ、ただ強さを求めた。


母親が死んだとき、彼は涙を流さなかった。

代わりに口の端から血を流した。

油断したら溢れだしそうな涙を堪えるために、ギリギリと固く食いしばった歯茎から、流血したせいであった。


ただひたぶるに強くなりたかった。

心が孤独に崩れないよう。

強くなる。

どんなに怒涛のような悲しみが、俺を揺るがそうとしても。折れないように。

どんな過酷な運命にも、心が痛まないように。

――だから俺は、強くなる。

黒澤に負けたとき、甲山は号泣した。

敗北は甲山にとって無であるからだ。


負けたら自分の生きる意味はないからだ。

俺には何もない。

金もない、学力もない、友もない。

俺の存在意義は勝つことだけだ。

負けたらそこですべてが終わる。


彼は呪文のように同じワードをくりかえしていた。

壊れたレコードのように。


「もう俺は負けちゃいけない。

二度と負けちゃいけないんだ」と――


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