第32話
もはや、この技しかない。
体のキレが悪い。動きのテンポがわずかにずれている。
試合中に修正しようと試みるも、今のところ上手くいっていない。
さらに放つタックルはすべて持ち上げられる。
窮余の一策。もはや甲山はこれに賭けるしかなかった。
どうなるのか。場内は静まり返る。
この技のポイントはひとつ、スライドして肘。
この一点に尽きる。
しかし通じなければどうだ?
甲山は自問自答する。この化け物に、そんな真っ当過ぎる打撃が通用するのか?
観客はかたずをのんで推移を見守っている。
リチャードは動きだした。
この怪物の行動は、甲山も、観客の予想をも裏切るものだった。
なんと、逆に手を伸ばし、甲山の顔面を捕らえたのだ。
城内がどよめいた。
「掟破りの逆アイアンクロー!」
何の策もない。ただ純粋に握力で甲山のこめかみをえぐっている。
しかし、その力が尋常ではない。尋常ならざる苦痛。
「うぐああああっ!!」
甲山はみずから掛けたアイアンクローの指を離してしまった。
両手でアッフィルーズのクローを外そうともがいている。
「……効いているぞ」
「明らかに、このクラシックな拷問技が効いている!」
観客は潮のようなどよめきをあげる。
このMMA全盛の世、ケーフェイのすべては白日の元に晒された。
プロレス技はすべて暗黙の了解あっての行為なのだと、あれは単なる御伽噺の中の技なのだと、誰もが一抹の寂しさとともに理解していた。
その近代の世に、純粋なプロレス技のみで相手を打倒しようとする男がいる。
しかも相手はこの地下で連戦連勝。
圧倒的な力を誇っている甲山なのだ。
ギミックではない、シンプルで純粋な強さ。
観客はリチャード・アッフィルーズという男に興奮した。
(MMAの世界でプロレスをする男)
ヘルナンデスは戦慄とともに思った。
それは本当の、リアル・プロレスラーではないのか?
まずい。
このままでは脳が破壊される。
甲山はこめかみを襲う激痛の中、それだけは理解していた。
この素朴なまでにプリミティブな技を外すには、ひたすらあがくしかない。
彼は目の見えない状態から、必死に拳を振り回した。
当たった。
当然だろう。この掌の向こうには、技をかけている当人、アッフィリーズがいるのだ。
甲山は狂ったように拳を振るった。
続けざま顔面に連打が炸裂する、しかし……。
「ぐっ!」
甲山はあわてて拳を引っ込めた。
拳に強烈な鈍痛が走った。
この痛みは間違いない、粉砕者が頭で彼の拳を迎撃したのだ。
闇雲な攻撃が裏目に出た。
痛めた右拳を開閉してみる。
どうやら折れてはいないようだ。
「こうなりゃ、道はひとつだ」
甲山は再び拳を振るった。
彼は狙いを変えた。
仕掛けているリチャードのアイアンクローの腕そのものに、拳をぶつけていったのだ。
フック気味のパンチを太い腕にめりこませる。
二発、三発、四発…外れない。
距離が短すぎるために、パンチの破壊力が死んでいるのだ。
そう判断した甲山は、身をよじり、下から鋭い一撃を繰り出した。
ショートアッパー!
確実に前腕部へ炸裂した。
――しかし、外れない。
まるで甲山の額に根を張ったかのように、クローはひたすら彼の額に吸い付いている。
強烈な破壊力に、甲山の意識は混濁し、じょじょに朦朧としてきた。
負けるのか、俺は。
いやこの男、それだけで済ませる気はないだろう。
こめかみをえぐられ続ければどうなるのか。
死ぬことはないだろう。
だが、昔エドなんとかというレスラーが、2時間くらいヘッドロックを掛け続けて、誰かを廃人にしたという話を黒澤さんから聞いた気がする。
いや、大鉄さんだったか、違う人だったか。
よくわからない。
人は死ぬ寸前に、走馬灯のように過去の映像を見るという。
甲山の脳裏には、まさにそれが流れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます