第28話

「まったくお前はどういうつもりだ。試合を危うく流すところだぞ!」


控え室にヘルナンデスの怒声が響き渡る。

甲山はうるさげに両耳をふさぎ、


「そう怒鳴るなよ。耳にダメージが残る」


「ふざけるな、地下の試合にドタキャンは許されないんだぞ。もう少し遅れていたら、消されてるぞ」


「間に合ったんだからいいじゃないか。それより試合に集中させろよ」


どこ吹く風でレスリングシューズの紐を結ぶ甲山。

ヘルナンデスは腹に据えかねたか、さらに言い募る。


「遅れてきて偉そうな事を言うな。もうすぐ試合時間だっていうのに、アップする余裕もないじゃないか」


「ここまで走ってきた。それで充分だろ?」


「馬鹿野郎! お前は粉砕者の怖さを知らないから、そんな舐めたことが言えるんだ。あいつは今までこの地下で無敗……いやそれより、あいつが何故、この地下で粉砕者と呼ばれているのか、知っているのか?」


「知らん」


きっぱりといった。


「……知らんなら教えてやる。あいつはリングで人を殺しているんだ。それも一人や二人じゃない。それも文字通り、持ち前の怪力で相手の骨を粉砕してだ」


「相手選手のカルシウムが足りてなかったんじゃないのか?」


「ふざけてる場合か! だから人の忠告は聞けと言ったろ。女といちゃいちゃする時間があるなら、必死に練習するしかなかった。それがお前の助かる唯一の道だったんだ」


ヘルナンデスは壁際にたてかけられていたパイプイスを蹴倒すと、


「――だが、その一縷の望みも、お前は自らの手で断ち切ったンだ! お前はヤツに粉砕されるしかない……」


「縁起でもないことを堂々と言うな。お前はどっちの味方なんだ?」


と、苦い顔で甲山。軽く柔軟をして試合に備える。

しかしどう考えても時間が足りない。

コンディションをベストの状態にまで持っていくのは、事前の入念なストレッチ、試合開始と同時に最高の動きを可能とするための軽めの運動。どちらも欠かせない。

その両輪とも欠いたまま、真剣勝負に挑んだらどうなるか。

甲山には経験がない。だが彼は楽観的だった。


(面白い、いつ何時、誰の挑戦でも受ける)


それがプロレスラーだと、甲山は考える。

今日はそれを証明する時なのだ。



場内にはいつもとまるで違う雰囲気が漂っている。

一見したところ、いつもの熱気と興奮がない。しかしそれは地下に眠っている水脈のように、ひそかに、だが確実に息づいている。


「おい、何か妙な感じだな」


甲山はセコンドに問いかける。

ヘルナンデスは露骨に顔をしかめた。

周囲のことを気にしてる場合か。そう言いたいらしい。

甲山はふんと鼻を鳴らして、ある顔を捜した。

――いた。

リングサイド最前列に彼女、アレクサの姿が。

彼女はひらひらと小さく白い手を振っている。流石に振り返す訳にはいかないので、甲山は軽くウィンクで応じた。


「大した余裕だな。コーヤマサン」


声に視線を転じると、リング上にかなり筋肉質の男が立っていた。

背は甲山より低いが、その肉厚は凄まじい。

WWAのブラック・レスナーをそのままぎゅっと凝縮したような感じだ。

その男はゆっくりと、甲山の目の前にまでにじり寄った。

自然、相手が見上げる格好になる。


男は言った。


「今から貴様を生傷男にしてやるが、その傷が元で死亡だ」


「……どこかで聞いたような科白だな」


甲山は眉をひそめた。どこで聞いたセリフだったろうか。

ヘルナンデスが手を叩いた。


「わかった!バンジャブというやつか?」


「違う。それを言うならデジャブだ」


そんなくだらないやりとりのうちに、銃口が天を見上げて火を噴いた。

闘いが始まった。






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