第20話

ひゅんと拳が弧を描いた。


「おっと」


甲山はその攻撃も読んでいた。うかつに頭を上げず、攻撃をやりすごした。

その隙にハリケーンマンは甲山の足の甲を、シューズの踵で踏み潰した。


「むっ…!」


思わず甲山は手を緩め、二人はまたも正面から対峙する事になる。

まんまとハリケーンが危地を脱出した格好となった――

が、そうではなかった。

甲山は正対した相手にむかい、ゆっくりと……そう、闘争の場であることを失念したかのようにゆっくりと手を伸ばし、ハリケーンマンの頭をわし掴みした。

場内がざわついた。


「そうだ、あの技は……」


プロレスの古典技、アイアンクローだった。

これには、流石にモンスターマンは激昂したようだった。

この生き死にの場である地下で、こともあろうに隙だらけのプロレス技、アイアンクローを仕掛けるとは。

それに甲山の指のフックは”鉄のツメ”と称すには、あまりにも甘すぎた。


「SHIT!」


怒りの 感情にまかせ、甲山の腕を払ったモンスターマンだったが、次の瞬間、人々は信じられないものを見た。

なぜかモンスターマンは、硬いマットに這いつくばっていた。

それはさながら、蝋燭の炎が突風で吹き消えたような唐突さであった。


何が起こったのか。


事態を理解できた観客は皆無に等しかった。

しかしひとつだけ、理解できたことはある。

それはモンスターマンが、この試合もう二度と立ち上がってこないだろうということだ。その倒れ方は、意識を根元から、死神の鎌で刈り取られる倒れ方だった。

それは推測というより確信であった。

白目を剥いた選手が、どうやって戦うというのか。


やがて終わりを告げる銃声が、むなしく空気を振動させた。


会場は水をうったように静まり返っていた。

観客には、目の前で行われた出来事が、まるきり理解できないのだから仕方ない。

プロのレスラーとして、地下の会場すらヒートさせる。

甲山は最後の最後の締めで、期待された役割を果たせなかった。

甲山にとって、それは屈辱的な場面であった筈だった。

しかし甲山は動じない。静かなるたたずまいで、土のように、リング中央に自然体で佇立している。

そしておもむろに彼は、両手を天空に向かって差し伸べた。

その意図するところはなにか、観客にはやはり理解できない。

…しばしの間のあと、彼はぐっと両拳を握り、天空へ力強く衝きあげた。


「――ッシャアア!!」


虚空へ吼えた。

それは怒りのシャウトか、それとも勝ち名乗りだったのか。

観客は後者に受け取った。客席は彼の吼え声にうながされるように、落雷の如き拍手を送った。

その様子をリング下で眺めていたヘルナンデスは呟いた。


「やりやがった…。こいつ、欲求不満気味の客席を、ただのガッツポーズひとつで魅了しちまった…」


単なる一挙手一投足で、人々の心を掴む。

それは何という存在か?


「そうか…もはや甲山はただの地下戦士じゃねえ。地下のカリスマに化けやがったんだ」


そう言わしめた甲山は、両拳を突き上げたまま、悠然と花道を去った。

背中からは、スタンディング・オベーションの観客からの拍手が追いかけてきた。


「ふうっ」


吐息とともに、カリスマから普通の若者に戻った甲山は、ヘルナンデスに向かい、ひどく人間くさい言葉を吐いた。


「…腹減ったな。飯喰いにいこうぜ」

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