第17話
しかし敵もさるもの、技の完成の一歩手前で頭を抜き取り、脱出に成功した。
後ろへ飛びすさるラシアンを敢えて追わず、体勢を立て直す甲山。
再び最初のように距離を開いての対峙となった。しかし最初と違い、甲山のダメージは深刻だ。それに…と甲山は思う。俺はあの一瞬で距離をゼロにする、あいつの稲妻のようなタックルを見切る自信がない。
そこで甲山は発想を切り替える事にした。
自分から先に仕掛けるのだ。
甲山は低い体勢でダッシュした。観客の驚愕した歓声が渦巻く。
「あ、あのハシミコフにタックルだと!」
無謀な行動だった。距離もある。
薄笑いすら浮かべ、それを待ち受けるハシミコフはハッと目を瞠った。
甲山の行動はさらに奇だった。
彼の体はさらに沈み、縦にぐるりと回転した。
甲山が出した技はタックルではなく、浴びせ蹴りだった。
あまりに馬鹿げた技の選択だった。
セコンドにいたヘルナンデスは頭を抱えた。
甲山はプロフェッショナル・レスラーというプライドのために敗れたんだ。彼はそう思った。
そして当然のように、その蹴りをロシア人はかわした。
観客の口からは一瞬失望のため息が洩れ、ついで驚きの声があふれた。
甲山とてあのローズ戦から、まるで実戦経験を積んでいない訳ではない。素人相手とはいえ、何度もセメントの場で修羅場をくぐってきている。
このロシア人程の男に浴びせ蹴りを出しても、かわされるだろう事は百も承知だった。
だから甲山はそれを餌にした。
この技はかわされるだろう。しかしこの男のレベルならどうするか?
必要最小源の見切りで横にかわし、すぐに仰向けに倒れた甲山の脇からサイドポジションをとる。
そこまで予測し、果たしてハシミコフはそうした。
甲山はすぐ側にある足を、おのれの太い腕にはさみこんだ。
相手はあっと叫ぶゆとりもなかった。
ハシミコフはいつのまにか倒され、いつのまにか完成していたヒールホールドに捕獲されていた。 ぶちぶちというすさまじい音を聞いたような気がした。
ハシミコフのアキレス腱が切断されたのだ。
…そして絶叫。
ハシミコフは苦痛のあまり、マットを転げ回っている。
もはや試合になろう筈もない。レフェリーは首を左右に振り、試合終了の弾丸を天へ撃ちはなった。
死闘がいま終わったのだ。甲山の勝利で…。
沈黙が、ひたすら場内を支配していた。
悲鳴をあげ、のたちまわるロシア人は既に強引に退出させられている。
呆然と虚空を眺めながら、甲山は思う。
あそこまでやるつもりはなかった。
だが、やるしかなかった。
自分が死にたくないなら、相手を殺すしかない。
力は自分ではセーブ出来なかった。過剰なまでの緊張感。死と生との狭間のプレッシャーで、手加減などはまったくできなかった。
ささやかな自己嫌悪に浸っていた甲山は、先程から無気味な沈黙を守り続ける観客を意識した。手酷いブーイングならまだいいが、確実と思われた賭けがひっくりかえったのだ。最悪、銃で撃ち殺される可能性もある。
ここでは死が日常茶飯事の事なのだ。
覚悟していた甲山の耳に流れ込んできたのは、落雷のような拍手喝采。甲山が思わず目線を上げると、スタンディングオベーションで彼を讃える視界一杯の笑顔が映った。
「ファンタスティック、コーヤマ!」
「凄かったぞジャパニーズ!」
「インクレディブル、コーヤマ!」
刺激に飢えていた筈の、ノーブルな観客が興奮している。それを見た甲山の胸に熱くこみあげるものがあった。
感動、興奮、達成感、それとも開放感?
…自分もよくは分からない。
ただ熱い思いに衝き動かされ、甲山は拳をぐっと天に突きあげた。
ひときわ歓声が高くなる。
この日、世間の誰もが存在すら知らぬ地下のリングで、甲山は生まれてはじめて本物のプロレスラーになったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます