第16話

出血したが、甲山は何も感じない。

ただ反射的に、その手を掴んだ。

その手を外そうと、もう片手のパンチが甲山の頬を貫く。

これはさすがに痛い。

だが、掴んだ。

大きな代償を払いながらも、甲山はまんまと相手の両手を捕獲することに成功した。


よし、ここからだ。


まさに甲山が反撃の体勢に移ろうとした時である。

甲山は驚きに目を瞠った。

彼の視界を、巨大な塊が覆っている。

ハシミコフは上から彼の顔面めがけ、頭突きを落としてきたのだ。

ごりんと嫌な音がした。


ハシミコフが頭を上げると、甲山の鼻からはドス黒い血がどろりとあふれ出していた。

くそ、油断だ! 俺が甘かったのだ。

きつく歯を食いしばって甲山は思う。

ここはルールのある総合格闘技のリングではない。

生きるか死ぬかの戦場に立っている自覚が、俺にはあまりに希薄だったのだ。

後悔の臍を噛む間もなく、ふたたびロシア人の頭が小さくのけぞった。

もうすぐあの、抜群の破壊力を秘めた頭が落ちてくる。

ハシミコフの両手を封じた指を離せば、甲山は頭を両手で受けとめられ、被害はなくなる。だが、今度は自由になった両手で、この男は容赦ない鉄槌の雨を降らせるだろう。そしておそらく、今度は防ぎ切る事はできないだろう。


覚悟を決めた甲山は、意外な行動に出た。

なんと封じたロシア人の両手を、逆に思い切り引っ張ったのだ。

当然ながらぐんと加速し、破壊力を増した頭が流星の勢いで落ちてきた。

そして、ガツンという硬質の響きが場内にこだました。怖いもの見たさで集まったホワイトカラーたちは、思わず身を乗り出し、唖然とした。


なんと甲山は身を起こし、ロシア人の頭に自らの頭をぶつけたのだ。

しかも、わざわざ加速をつけてである。どちらの威力が上かは言うまでもない。

甲山の額は切れ、鮮血がしたたり落ちた。

ロシア人はさらに頭を落とす。甲山はさらに頭をカチ上げる。


ごん、ごん、という不気味な重い音があたりを支配している。

3、4、5、6回…えんえんと終わらない。

いつしかハシミコフの額も切れていた。もちろん、甲山のダメージはさらに深刻である。

しかし甲山は、まるで意に介した様子もない。不敵な笑みを口元にのぼらせたまま、ひたすら頭をぶつけ続ける。すでに会場は騒然となっていた。


「な、なんだこのクレイジーな男は!」


「こいつはプロレスじゃないのか?」


「こんな試合、いまだかつてお目にかかった事がねえ!」


ここの観客にとって選手は賭けの対象でしかない。

単なる残酷ショー見物程度の認識で来る人間、単なる暇つぶし、そういった金はあるが興奮の乏しい生活を送っている人間が主だった観客層だ。

殺し合いのノールールなら刺激が多いだろうという発想で生まれた地下プロレスだが、実際は逆の効果を生んだ。

一歩間違えば死にいたるのだから、選手は客の目を意識する余裕がない。どの試合も慎重に慎重を重ねるような、退屈な試合展開が多い。

結果も一方的な殺戮になりがちである。

そんな地下で、かつてこれほど馬鹿馬鹿しいくらい真っ正直な、意地の張り合いの頭突き合戦など行われるはずもない。

興奮し立ち上がるノーブルな客たちを尻目に、なおも二人は凄絶なぶつけあいをつづけている。

それが三十回を超えたあたりだろうか?

ふいに重い音が止まった。

なぜか。ハシミコフが頭突きをやめたのだ。

甲山は額から大流血し、顔面はさながらグレート・ムタのペイントのように深紅に染まっていた。

その紅の中で、ただふたつの目だけが、あたかも別の生命体のようにギラギラと光を放っている。

自らの鮮血に染まりつつ、口元にニタニタとアルカイックな笑みを貼り付けたまま、頭突きを打ち返してくるのだから尋常ではない。

ハシミコフが内心、恐怖を覚えても不自然ではないだろう。

甲山はなおも狂ったように、何度も下から頭をカチ上げる。

手におえないといわんばかりにハシミコフは身を離し、必死で掴まれた両手を振りほどいて立ち上がろうともがいた。

そこへ。さながら大蛇のように、甲山の鍛えぬいた両足が、するするとハシミコフの太い首に絡みついた。


三角締め!

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