第15話
「――時間だ」
30分ほど経過したろうか。
監査役らしい男が腕時計を見ながら告げた。
アップは上々。ほどよく汗をかいた甲山は、先導する男の後をついて、控え室を出た。
長いトンネルのような、ひたすら石の壁が続いている。
――やがて、先のほうに光が見えた。
トンネルをくぐると、そこはリングだった。
擂鉢状の試合会場で、客席には赤い絨毯が敷き詰められている。
選手の通路とリング周辺はコンクリートである。大半の客は手にワイングラスを持ち、ウェイターからカクテルを注がれている。大きな葉巻を燻らすものもいる。ここは禁煙でないことは確かなようだ。
「あちらは天国、こちらは地獄だな」
甲山は薄く笑い、地下プロレスのリングに立った。
裸足の裏で感じるマットの感触は、かなり硬い。
受け身を取りやすくするため、柔らかく設定されているプロレスのマットとは大違いだ。
噂に聞いていた、硬いヨーロッパのマットはこんな感じかなのか?
甲山がそんな場違いな感想を抱いた時、対戦相手が入場して来た。勿論、入場テーマなどはない。コスチュームは赤いダブルショルダー。
肌が白く、毛深い。身体の線は丸みを帯び、一見肥満しているように見える。
しかしこういうタイプは要注意だ。
肥満のように見える脂肪の下に、強靭な筋肉が潜んでいる場合が多い。特に引く力は、ロシア系の選手は凄い。
ロシアの格闘家なら、十中八九サンボも使えるだろうと甲山は推測した。
そして、レフェリーからルールの説明を受ける。
目突きあり、金的あり。まさに本当の意味でのバーリトゥードだ。
相手と対峙して、甲山は気づいた。
戦闘前にもかかわらず、 姿勢が前傾になっている。日頃からそういう練習ばかりやっている人間特有のクセといえた。
――ならば予測できる攻撃は、低空からの高速タックル。
対応策としては、クラッチを切って潰してから顔面へ膝。
踏ん張って受けてのフロントチョーク。
甲山の脳裏にそれらの思考が溢れたのは、ほんの一瞬だった。
いずれも、今の俺の技術なら可能だと甲山は冷静に判断した。
もうローズ戦までの無知でひよわな俺ではない。技術はあのころと比較すると、飛躍的に向上している。
臆病になるな。ただし、慎重にいくべきだ。
そこまで考えた時、試合開始を告げるゴングならぬ銃声が、乾いた音を立てて天井へと突き刺さった…。
――その、一瞬だった。
それは、あらかじめ予期していた行動だった筈であった。
だが、気づくと甲山は背をマットにつけて天井を眺めていた。
しばし睨み合った後、タックルを誘うための軽いジャブを撃ち込んだ――その直後だった。
むろん、油断していた訳ではない。
誘いであるため、踏み込みも浅く心掛けた。
ただ相手のタックルが、彼の予想の範疇を遥かに超えて、速かったのだ。
甲山はトップアスリートの集うプライドのリングですら、これほど速いタックルを見た事がない。この男、表の世界の成績は聞かなかったが、おそらくとんでもない実績を残していることだろう。
勿論、そんな事は甲山の現在の状況にはまるで関係がない。
ハシミコフは中途半端な体勢ながらも、上から非情な鉄槌を振り下ろしてきた。
意外なほど的確なパウンド。さすがに地下の選手として登録されているだけあり、ただのアマチュアレスラーではない。
たちまち甲山の顔面が鮮血にまみれる。
しかし、ここは日本のマットではない。
彼の顔面からどれ程の出血が見られようと、モネ・ローズ戦のようにストップがかかることはない。彼が動かなくなるまで、あるいは死ぬまで、攻撃は続くのだ。
表のプロレスとは客層が違うため、観客席からは下品な野次が飛ぶ事はなかった。だが試合開始早々、テイクダウンを奪われ、いきなり最悪の状況に陥った甲山に対し、露骨に失望のため息が洩れる。
……くそったれ。
何とか優位なポジションを取り戻そうともがく甲山は、ハシミコフから立て続けに4、5発殴られた。
早くも唇が切れ、頬が裂けた。
たった一瞬のミスが、取り返しのつかない窮地を招いてしまった。
冷静になれ、冷静にパンチを観ろ。甲山は自分にいいきかせた。
恐怖でまぶたを閉じずに、拳の軌道を読む。
体重の乗ったハンマーパンチが、甲山の右耳を潰した。
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