第二章
第12話
甲山サトル。その男が去ったあと、日本は変わった。
彼が守ろうとしたプロレスはますます世間の片隅に追いやられていき、代わって台頭してきたのが格闘技だった。
D-ONEやグレートニオ武蔵祭りに人々は熱狂し、ほぼ日替わりのように新たなスターが誕生しては消えた。
彼を嘲笑した大岩館長は、脱税騒動ですでに代表の座を降りていた。
あのモネ・ローズはあの試合以降、もう来日することはなかった。
プロレス界では、彼のバックアップをつとめてくれた永島が、超日本プロレスの屋台骨を背負うリーダーとして躍進。安定した試合を続けていた。
銭安は、そんな正規軍に敵対するトップヒールの一人として活躍していた。
サトルという男の存在は、回転の速い世間から忘却され、彼が帰るべき場所はどこにもないように思えた。
しかし、まだその男は戦っていた。
――甲山サトルは強くなるために、まずアメリカに渡った。
とりあえず、日本では習得できない技術を学んでやる。
そこから始めることにした。
生粋のケンカ屋であった甲山に、格闘技の基礎などあろう筈がなかった。
あるのは超日本の道場で学んだ関節技だけである。
しかし彼には、強くなるためだけに知るべもない外国へ飛んでいく、向こう見ずなまでの情熱があった。
誰にも負けたくないというガムシャラなまでの意地があった。
まず、彼が最初に向かった先は、フロリダ州タンパに住む、カール・ゴッドの元であった。
カール・ゴッドは『プロレスの神様』として知られ、あの超日本プロレスの祖である、グレートニオ武蔵を鍛え上げたという伝説的な存在である。
しかしゴッドは老齢を理由に隠居しているとのことで、指導はもっぱら弟子であるフランコの役目だった。
彼は2ヵ月の指導を受けた後、早々にそこを辞した。ゴッドに教えを乞えない以上、長居は無用と判断したのだ。
次に渡ったのはイギリスだった。キャッチ・アズ・キャッチ・アズ・キャン――ハリー・ライレー道場へ向かった。
この道場こそ、若き日のカール・ゴッドが通ったという、伝説の道場である。
ここでみっちりと関節の基礎を学んだ甲山は、自分がプロフェッショナル・レスラーとしていかに未熟であるのか、まざまざと思い知らされたような気がした。
プロレスは単なるショーでない。相手を屈服せしめる技術を持った、立派な格闘技なのだ。甲山はあらためて、この道場でそれを実感した。
そして現在、すべてのレスラーが置き忘れてきたものが、どれほど膨大な喪失であったのかを、かれは痛感した。
プロレスラーは強くなければならない。
弱いレスラーなど、プロと名乗る資格がない。
日々、刃物のように研ぎ澄まされていく精神が、肉体が、甲山にそう囁きかけていた。
ここで様々な技術と、なにより真のプロレスラー魂を学んだ。
甲山は、次にブラジリアン柔術の道場へと入門した。節操がないといえばそれまでだが、とにかく強くなるためなら手段は問うてられなかった。
一日2時間の柔術の練習が終ると、一流の打撃を学ぶため、甲山はさらにボクシングジムへ向かう。――当時、まだMMAという言葉すら誕生していなかったアメリカでは、MMAのみの専門的な技術を教えるジムなど皆無であった。
さまざまなジムを渡り歩かないと、総合的な強さを身につける手段などなかったのである。
ローズとの対戦で、自分の打撃技術のなさを痛感していた甲山にとって、とりわけボクシングジムでの収穫は大きかった。
アメリカは流石に数多くのヘビー級チャンピオンボクサーを輩出しているだけあり、ウェイトのある選手の指導方法たるや、軽量選手ばかりを輩出している日本のジムの比ではなかった。
そうして学んだあらゆる技術を一本の線にしようと、甲山は教えられた内容をノートにこまめに書き記し、それを身体に覚えこませるべく、必死に反復練習した。
鬼気迫るその一途さに、周囲は彼の事を「バトルクレイジー」と呼んだ。
睡眠時間は体調保持のため6時間はキープしているが、食事とバイト以外は強くなるためにすべて割いた。
酒もタバコもやらない。
毎日毎日、滝のような汗にまみれ、筋肉が悲鳴をあげるまで歯を喰い縛り、黙々とトレーニングを続ける。
「こんな事をやっていて、一体何になるんだ?」
わからない。
「こんな平和な時代で強くなることに、どれほどの価値があるのか?」
わからない。
甲山はそんな埒もない自問自答を幾夜も繰り返した。
人を殺すなら、銃を持った方が遥かに早い。
アメリカなら、裏通りを歩けば安物のやつなら簡単に手に入る。
しかし……。そう、しかし。
見えない何かが、背中を押すのだ。
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