第10話


「――えー、城内の皆さまにお知らせします。治療の結果、甲山選手の額の傷が予想以上に深いです。選手の安全のためドクターストップとさせて頂きます」


 レフェリーの無情なアナウンスが流れた。

 当然ながら、場内は騒然となった。誰がどう見ても、そこまでの出血には見えなかったからだ。


「ふざけんな!」


 永島と銭安は、リング下から矢のごとく駆け上がり、レフェリーにつかみかかった。温厚な銭安さえ、まるで赤鬼の如き形相をしている。

 いっぽう、当の甲山はというと、まるっきりの虚脱状態であった。

 エキサイトする気力すら湧いてこない。

 ただ冷静に、状況を把握しようとする自分がいた。


 どうしてこうなったのか?


 どこにミスがあったのか?


「まさか……」


 ふと、甲山の脳裏に浮かぶものがあった。

 その思いを確認するため、解説席を振り返った。

 そこに座る大岩館長と目が合った。

……笑った。大岩はそのとき、確かに笑った。

 血まみれになった甲山を前にして、館長は微笑を浮かべたのだ。


 その瞬間、甲山はすべてを悟った。

 これはすべて最初から決定されていた結末だった。

 カットしての流血TKO負け。

 その証拠に、彼が額を切られたスローが流されない。

 的外れな場面の攻防だけが、えんえんと大画面で展開されていた。

 

 大岩館長はおそらく感じていた。このマッチメークの無意味さを。 

 何のネームバリューもない新人レスラーをマットに上げても、メリットなどまるでない。D-ONEの価値を下げるかもしれない者の存在など、必要ではないのだ。

 それでも、超日本のプロレスのときの俺のように、会場を沸かせるような試合ができたなら、まだ利用価値があっただろう。

 しかし俺は、勝利に渇望していた。ただしゃにむにタックルを繰り返し、えんえんと地味なグラウンドの攻防を展開してしまった。


 俺は失格したのだ。


 大岩館長に、利用価値なしとの審判を下されてしまったのだ。

 俺が試合に使えるかどうか1ラウンドで判断し、おそらくインターバルの間にでも、決行しろと何らかのサインが大岩館長からレフェリーに送られたのだろう。

 マウントを取った下からの反撃で額を切る。通常はありえない。

 だが甲山はプロレスラーだから分かる。

 反則攻撃なら、たとえば鋭利なもので切りつけるなら、それは可能だろう。

彼はひそかにつぶやいた。


「……俺は間抜けだった」


 甲山はいまだに抗議を続けている二人の肩を叩き、リングを降りるよう促した。


「お2人とも、もう帰りましょう」


「ハア? 甲山、お前本気か?」


「いいの? このままじゃ泣寝入りになっちゃうんだよ」


「いいんす。これは俺の負けですから」


 甲山は力なく、苦笑いを浮かべた。

 すべては虚しかった。決して覆る事のない結末。それがわかっていた。


「――バッキャロー甲山! 死んじまえ!」


「――おい甲山のアホ、てめえプロレスに恥かかせやがって!」


「――黒澤が泣いてるぞ! 甲山!」


  三人は花道を引き返しながら、客の罵声をうなだれながら聞いた。

  通路が果てしなく、異様に長く感じた。ねじった紙コップが、彼らに投げつけられる。観客はいつの時代も残酷だ。

 敗者にかける情けなどは存在しない。

 憔悴しきった表情で、彼らは控え室の扉をくぐった。


  控え室の扉を閉めた瞬間、永島が爆発した。


「おい甲山、諦めがよすぎるんじゃないのか? 勝負はほとんどお前のものだったんだぞ」


「そうだよ甲山くん、もっと怒らないと」


 銭安も頷く。


「すいませんお二人とも。わざわざセコンドについてもらったのに、こんなブザマことになっちまって」


 甲山は頭を下げた。


「馬鹿野郎、そんなことを問題にしてるんじゃねえだろ!なんで抗議しなかったかって言ってるんだ」


「…………」


 しばし無言だった甲山だが、うつむいたままぽつりぽつりと語り始めた。


「俺が甘かったんス」


「ああ?」


「敵のリングの上が、純粋な勝負を競う場だと錯覚しちまった、俺が甘ちゃんだったんスよ――」


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