第9話

 すでに2ダース近い打撃を、顔面中心に貰っている。

 脳が揺れれば、タフもクソもない。

 朽木のように倒れ、冷たいマットに口づけするだけだ。

 ローズの強烈なアッパーが、喉元あたりにめりこんだ。


 案の定というか、ついに甲山は倒れた。

 ゆっくりと、前のめりにノックダウン――。誰もがそう思った。


「うおおっ!?」


  歓声が上がった。先ほどよりも大きい。

 甲山が倒れるとみせ、マットすれすれを魚雷のように突進したのだ。

  超低空タックル。

 打撃系格闘技出身者のクセで、ダウンと判断し、油断しきっていたローズは、完全に虚をつかれた。

  足首を掴まれ、もがいたローズはバランスを失った。大木が倒れるように、長い体がついにマットに横たわる。


「いまだ! 逃すな甲山ア!」


 セコンドからの檄、いわずもがなである。

 すでに甲山は、豹のようなしなやかさでサイドポジションに回りこんでいた。腕をからめて関節を狙いにいったが、まだローズはスタミナが豊富だ。容易には極まらない。

 せっかくのテイクダウン、ここで極めきれなければ、もう二度とチャンスはないかも知れない。ただでさえ打たれすぎている。

 判定にでもなったら勝利の目はまずないだろう。


「甲山焦るな、落ち着いていけ」


 しかし、彼は焦らずにはいられない。

 もう頭は残り時間の事でいっぱいだった。

 サイド・ポジションはさまざまな選択肢が約束されている。そのまま腕がらみや腕十字を狙ってもいいし、コツコツパンチを落としてもいい。うまく一跨ぎすればマウントに移行できる。

 それだけの優位性を保ちながら、甲山にはまったく精神的なゆとりはなかった。

――残り時間。

 それが彼の精神に余計な負担を与え、動きを粗くしていた。


  まず力ずくでV1アームロックを仕掛ける。

 が、余力があるローズに抵抗され、なかなかきまらない。ならば足を入れてマウントに移行しようと考えたが、敵もさるもの。両膝を絡ませて、しっかりガードしている。

 意外ときっちり対策を練ってきている。この男はただの卑怯者ではない。

 練習を重ねた上で、敢えて反則を仕掛けてきているのだ。

 この野郎。甲山は肘で相手の顔面をこすった。

 ダーティに見えるが反則ではない。相手は肘を払おうと、無造作に甲山の腕をつかんだ。

 かかった!

  甲山は注意がおろそかになったローズの下半身を跨いだ。

  遂にマウントを奪ったのだ。


  刹那――その刹那、甲山はおのれの勝利を確信した。

 だがレフェリーが彼の背後にまわった瞬間だった。

 視界が不意に悪くなり、甲山はうろたえた。なにかが片目に入ったのだ。


「うおおおおお」


 仔細構わず、甲山は上からハンマーのように拳を振り下ろした。

 右・左・左・右・左・左。

 時折フェイントも混じえ、地道な作業をこなす大工のように、機械的な一定さで拳を振り下ろした。

  当たる。

 どうだこの野郎。

 殴られると痛いんだ。


「お――し、お――し!」


 甲山の拳が当たるたび、セコンドから声が上がる。

 しかし、驚くべき事が起こった。

 甲山の背後から、誰かが彼の腕をつかんだのだ。

 レフェリーだった。

 馬鹿な、まだゴングは鳴っていない筈だ。

 何が起こったのか、甲山はまったく現実を判断する能力を失っていた。


「ドクター!」


 レフェリーが叫んだ。

 そうか、俺の拳で奴が怪我をしたのだ。甲山はそう判断した。

 しかし意外なことに、ロープを跨いだリングドクターは、一直線に彼の許へ歩みよった。


「ドクター、勘違いしないでくれ、俺はまったくの健康体すよ。むしろ診てやるのはアイツの方でしょ」


 だがドクターはきっぱり首を振った。


「何も間違えちゃおらんよ。私が診なきゃならんのは君だ」


「どういう事だ……?」


 といいつつ、彼はふと額に手をやった。

 そこでやっと、視界を塞ぐものの正体に気づいた。甲山は額からいつのまにか出血していたのだ。

 アドレナリンで痛覚が鈍磨していたため、まるで気づかなかったのだ。


「甲山選手の治療のため、しばらく試合を中断いたします」


 ざわめく観客にアナウンスが無機質にこだまする。

  甲山は止血処置を施されながら、視線をセコンドへと向けた。

 心配そうな永島と銭安の顔が見えるが、彼らもレスラーだ。

 これがそれほどダメージのないカットだと理解しているだろう。

  甲山はそれでも、あえて安心させようと拳を上げて、ニッと笑ってみせた。


――その時、誰もが予想だにしていなかった事態が起こった。

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