第8話

  慌ててピーカブーの構えをとるが、未熟な甲山のディフェンスをあざ笑うように、ブロックの隙間、両腕の間からアッパーが強引に割り込んできた。

 モロに顎先に突き刺さり、甲山の膝が縦に揺れた。

  効いている。

 頭が揺らされ、頭蓋骨に脳がぶつかって全身が痺れる。

 いわゆる脳震盪の症状だ。

  好機と見たローズは、一気にラッシュをかけてきた。


「甲山! 防げ防げ!」


 どこか彼方のほうから声が届いた。

 それがエプロンにいる永島の声と解ったのは、ボディに膝を食らった直後だった。

 呼吸が詰まる。

 思わず口のマウスピースを吐き出した。

 首相撲の体勢に捕らえられ、さらに膝を連打される。両手で防ぐが、ローズはガードの上から容赦なく膝を入れる。これが、思ったよりも効く。


「甲山、前だ! 下がるな下がるな!」


 それだけは耳に届いた。苦悶を歯でかみ殺しながら前進し、かろうじてローズを掴んだ。

 この薔薇野郎、これからは俺の時間だ。

  甲山は頭を、相手の胸に合わせる格好で抱きついていた。

 奴の背後にはロープ。しかしプロレスではないからブレイクはない。

 足をかけ、サイドに倒そうとした甲山だが、驚いた事にローズは地に根が張ったかのごとく、甲山が幾ら力を込めても微動だにしない。


――馬鹿な。さっきの脳震盪のダメージで力が出ないのか。

 いや、このブリッジで鍛え抜かれた首、それが衝撃は最小限に食い止めてくれた。もう痺れはない。なのに何故?


 疑問が甲山の脳裏を駆け巡った時、銭安が声を荒げた。


「おいレフェリー! そいつロープを掴んでいただろう! チェックしろ!」


「なんだって?」


 レフェリーは驚いたが、甲山も驚いた。おかげで一瞬、隙が生じた。

 すかさずローズは両手を振りほどき、距離をとった。折角のテイクダウンのチャンスを失った。


――その時、第一ラウンド終了のゴングが鳴った。

 ローズはこれ見よがしに片手を上げながらコーナーに戻る。


「野郎、相変わらずキタネエ真似しやがる」


 銭安は憤懣やるかたないといった表情だ。無理もない。

 あの姑息でダーティな小技でリズムを狂わされ、前回、彼はローズにノックダウン負けを喫しているのだ。

 Dきっての問題児ローズ。こういう卑劣な手段を平気で用いるところから、どのキックボクサーも対戦を嫌がる。


「もう気にしないことだ」


 永島は冷静に言った。


「一番怖いのはあいつの卑劣な手段で、頭がカーっとなる事だ。どうだ甲山。お前いま、自分が平静といえるか?」


 甲山はマウスピースを受け取り、静かに頷いた。


「勿論っす」


「ようし、いい返事だ」


 セコンドアウトのアナウンスが響き、甲山はペットボトルのミネラルウオーターで口をゆすぐと、勢いよく水を吐いた。

 赤いものに混じって、小石のようなものがバケツに落ちた。

 打撃で砕けた奥歯だった。

  永島たちはリングを降りた。

 ゴングの音を背中で聞き、甲山は再度ローズと対峙した。

  仕切りなおしだ。


 ローズは相変わらず軽快なステップでリングを踊っている。

  甲山がのっそり前に出ると、奴は挑発するような笑みを浮かべながら両手をだらりと下げた。

 ノーガード。

 当てられるものなら当ててみな。そう言っているのだ。


「なめやがって……」


 永島の忠告は耳に残っていたが、何としてもこの枯れ木野郎に一撃を当てないと気がすまない。

 しかし並大抵のやり方では、うまくいく筈が無い。

 性根はねじ曲がっていようが、相手は打撃のエキスパートなのだ。

 そこで甲山は、奇をてらった策に出た。両手をだらりと垂らしたまま、ずいと前進したのだ。


 こちらも、無邪気なまでのノーガード。

 ローズが躊躇したのは、ほんの一瞬だけだった。

 彼の頬に残忍な笑みが閃いた。次の瞬間、すかさず甲山の隙だらけの顔面に、パンチが六、七発ほど連続で入った。

 食らった甲山は、明らかに膝が揺れた。

  効いたのだ。


「馬鹿、ガードを上げろ!」


 セコンドから声がとぶ。しかし、おかまいなしで甲山は前へ出る。


「――おいおい、あいつ、いいのを貰いすぎじゃねえか?」


「――てゆうか、あれでなんで立ってられるんだよ」


  場内からは異様な歓声が上がる。プロレスラーのタフネスに対する賞賛だった。


 永島は苦い顔をした。


「あの馬鹿、玉砕する気か?」


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