第5話

そこからの日々は更なる地獄だった。

スクワットも腕立て伏せも、他のレスラーの量の倍を指示された。


「甲山アッ! まだ仕舞じゃねえぞ!」


膝がガクガク震えて立ち上がれないほどシゴきぬいても、大鉄は許さない。


「お遊びじゃないんだ!プロレスを舐めるな!」


インターバルなんてまったく念頭においてない、前時代的で非科学的なトレーニング。


「何を寝てるんだ、これからスパーリングだぞ!」


 いっそ、こいつを殺してとんずらしようか。そのあまりのスパルタぶりに、サトルは本気で出刃包丁を購入しようか考えたほどだ。

――しかし、時は流れる。

一生懸命流した汗に関して、肉体は正直だ。

甲山は最初、ここの過酷過ぎる練習のおかげで、体重は増加するどころか、逆に入門時より10キロも痩せた。

しかし、そこから上質の筋肉が生まれ、見違えるように強靭になった。

スクワットも三千回を当たり前のようにこなせるようになったし、体重も90キロを越えた。

スパーリングの技術も向上し、先輩たちも徐々に遊びがなくなっていった。

現在では甲山がスパーの相手を申し込むと、誰の顔にも緊張が走るようになった。

まちがいない。

俺は強くなった。

誰にも負けないという気持ちが湧き上がり、一刻も早くリングに立ちたかった。

だが、彼はある事実を告げられた。


リング上の秘密、ケーフェイ。


彼もバカではないから、あくまでプロレスは殺し合いではなく相手の技を受けあって成立するスポーツという認識はあった。

だが、全力で勝ちにいってはならないという事実は彼を打ちのめした。

ある意味、それは大鉄のシゴキより辛い事だった。

 

それではこれまでの過酷な日々は何だったのか?

歯を食い縛り、血の小便垂れ流して獲得した技術は、どこに持っていったらいいのか?


「どういうことだよ、そりゃ……」


懊悩、苦悩、煩悶。

どういう言葉も足りない。

甲山は苦しんだ。

脳が破裂しそうなほど悩んだ。

メンタルが低調な時は、練習にもろに出る。

ついに甲山はスパー中、先輩の永島祐二のタックルを下手に切り、太ももの肉離れを起こしてしまった。

練習にも参加できず、上半身の基礎練習だけ――

身体を動かせないことが、ますます甲山の心理状態を悪化させた。


「――すいません。ちょっと時間ありますか?」


意を決し、甲山は一本の電話をかけた。

こんなことを相談できそうな相手は、一人しかいない。


「――なんでえ、しょぼくれた面アしてんな」


呼び出された黒澤善明は、甲山を見るなり、にやりと破顔した。


「まあ話は一杯やってからだ」


ふたりは連れ立って店に入った。

そこはあの赤提灯、「毒まむし」だった。

店の主人は、甲山を見ても無反応だった。

甲山がぺこりと頭を下げると、主人は黙って冷えたおしぼりを甲山の前に置いた。

酒が進み、意を決して甲山は訊いた。


「黒澤さん、プロレスを辞めたいって思ったことは?」


「なんべんもあるさ。当然だろ。片手間でできる仕事じゃねえ」


「……そうですね」


ただ、沈黙。

酒の席というのに重苦しい雰囲気が支配した。


「おめえが言いたいのはそんなことじゃねえだろ。要はケーフェイだろ? 違うか」


甲山は黒澤をまじまじと見た。


「わかりますか?」


「そんなのはおめえ、第一段階だな」


言って、コップに並々と注がれた日本酒をがぶりと齧る。


「――んで、おめえはどうしたい?」


「……わからない。わからんから訊きに来たんです。俺はどうしたらいいんすかね……」


 甲山は静かにコップの中の波紋を見つめている。

 黒澤の答えは、簡潔だった。


「そんなのはな、ここへ来る前に決まってんだよ」


「どういう事すか?」


 怪訝な顔つきで尋ねると、


「人間は誰かに相談するときゃな、大抵腹のなかはもう決まってんだよ。てめえはその腹の中のもんを確認に来ただけなのさ」


彼はサトルの胸を指で突いた。


「いいか、その足りねえ頭でよっく考えてみるんだな、てめえが本当にやりたいことを」


その言葉でサトルは気づいた。

そうだ、自分の心はすでに決まっていたのだ。

ただ誰かに背中を押して貰いたかっただけなのだ。

彼は黒澤に告げた。


「俺はプロレスやります。俺はプロフェッショナル・レスラーですから!」


それを聞いて黒澤は破顔した。

どこなく、懐かしいものを思い出した。そんな笑みだった。


「上出来だ、ぼうず」


サトルのデビュー戦の相手はベテラン、ワイルド斉藤だった。

はじめての観衆の前でのプロレスに舞い上がってしまい、何をどうしたかまったく記憶にない。

同期の若手に聞いたところ、最後はワイルドのダイビングセントーンで3カウントを聞いたらしい。

大仕事を終えた。甲山の胸に去来したのはまずそれだった。

最強への夢を捨てたわけではない。

だが、今は、このプロレスというジャンルにどっぷりと浸りたかった。


その後は順調にキャリアを重ね、一年後には若手の有望株として声援も飛ぶようになっていた。

嬉しかった。自分のひとつひとつの動きに観客が声援を送ってくれる。

彼はプロレスの楽しさがわかり始めていた。

そんな矢先だった――。


ある事件が、超日本プロレスを揺るがした。


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