第4話

 腕は折れなかったが、確実に黒澤はサトルの心を折った。

 いつもなら、腕が治り次第、金属バットでも持ってお礼参りに行くところだ。

 しかし、今回は不可能だった。

  相手は複数ではない。一対一、初めてタイマン勝負で負けたのだ。


 俺は強くない――。


 その衝撃で、しばらくは部屋の外に出るのも躊躇われた。

 一度折れた心を治すのは、容易な事ではない。

 喧嘩は、何一つ誇るものの無い甲山の、唯一の取り得というべきものだった。それを否定されたのだ。


「俺はどうしたらいいんだ……」


 甲山は悩んだ。過去、こんなに頭を使ったことはないほど懊悩した。

  解決策はふたつある。

 ひとつは自分の弱さを受け入れ、あきらめて従順に生きることだ。

 もうひとつは、今より強くなろうと足掻くことだ。


「……俺になにがある。俺には、これしかないじゃないか」


  決断したら実行しかない。サトルは黒澤を探した。

  復讐のためではない。弟子入りするためだ。

  強くなる以外にない。

 強くなる以外に、自分の心が癒えることはないと、確信したためだ。

 雨の日も風の日も、彼はあの赤ちょうちんの前で彼を待った。


 だが、やっとめぐり合った黒澤の返事はにべもなかった。


「――悪いな、もう弟子をとるのは懲り懲りなんだ」


 と、苦虫を噛み潰したような顔で黒澤はいった。

 そして紹介されたのが、超日本プロレスの道場だった。


「おめえに本当に強くなりてえって心意気があるなら、突破できる壁だろうさ」


 と、黒澤は笑った。それは確かに容易な壁ではなかった。

 甲山サトル十八歳。

 彼はこの時、プロレスラーとしての門をくぐった。


・・・・・・・・・・・・・・・・



 彼の想像以上に、プロレスラーのトレーニングは過酷を極めた。

 どこのスポーツでも取り入れている、ヒンズー・スクワットという、膝の屈伸運動がある。

 せいぜいが、五百回ほどやらせるのが限度だ。

 これ以上はオーバーワークになる。それだけ単純にして過酷な運動なのだが、ここでは千五百回が基本なのだ。

 このレベルに達することができなければ、もうそれだけでプロレスラーになることは諦めたほうがいい。そう言われた。


 サトルは、この場所は狂っていると思った。

 これでまず大抵の新人は荷物をまとめる。腕立て伏せは五百。

 ランニング、腹筋、すべてが常識はずれの量のトレーニングを強いられるが、これはあくまで、単なる基礎練習でしかない。


 それを終えると、お次はスパーリングだ。

 もちろんスタミナも切れてるし、満足に動ける筈がない。

 しかも、すでにプロとして様々なテクニックを身につけている先輩レスラーに勝てるわけもない。

 

 もっとも新人を苦しめるのが、ラッパだ。

 これは上になった選手が、下になった相手の呼吸器官を肉体で塞ぎ、息をできなくする行為だ。ダメージを与える技ではない。完全なる拷問技だ。

  毎日のように伸ばされる靭帯。

 ゲロをぶちまけ、血の小便を流し、筋肉痛で床をのた打ち回る。


 甲山サトルは、自分にはレスリングの技術も経験もないことを知っていた。

 しかし、気合と根性では誰にも負けないと思っていた。

――が、ここに来て、それは思い違いだったのではないかと疑うようになった。

 

 こんなに痛めつけられた日々は、かつてなかった。

 俺は強い。そう思い込んでいた自分の世界が、いかに矮小なものかというのを痛烈に突き付けられたのだ。

 甲山はこの合宿所から逃げ出したいという衝動に駆られた。

 それも、一度や二度ではない。


 それをかろうじて踏みとどめたのは何か?


 それを言葉で説明するのは容易ではない。

 つまりは心が判っていたのだと、甲山は考える。

 ここを逃げだしたら、もう俺にはなにもなくなる。

 かろうじて保っていたちっぽけなプライド、それを放棄してしまった人間がどうなるか。

 それを若い甲山が、経験で理解していたわけも無い。


 だが、感覚的なもので理解していたのだ。ここを逃げたら、残りの人生の全てを、ケツを蹴っ飛ばされた野良犬のように、人の気配を窺いながら生きる羽目になるだろうと。

 だから彼は必死に食らいついた。

 だから歯を食い縛って我慢した。

 すべては、おのれがおのれで在るが為に。


 その甲斐あってか、一年が経過する頃には体ができてきた。先輩たちには、スパーリングでも勝てはしないにしろ、簡単に決めさせない位には上達した。

 そこに懐かしい顔が現れた。道場生たちは整列して、彼に頭を下げた。


「ウッス、黒澤先輩、お疲れ様です」


――黒澤?

 甲山がブリッジのトレーニングもそっちのけで跳ね起きると、懐かしい笑みが待っていた。彼をぶちのめした男――あの黒澤嘉明だった。


「なんだてめえ、まだ居たのか?」


 と言った割には、さして意外そうな顔つきでもなかった。


「まあ、この程度で逃げ出すとは思わなかったけどよ。しぶとそうな面構えだったもんな」


「オス、お久し振りです」


 甲山は頭を下げた。かつての暴れん坊の姿は、影を潜めている。

 

「変わったな、おまえ」


「そうっすか?」


 自分ではわからない。だが以前のような、ジリジリと身を焦がすような焦燥感は薄れているような気はしていた。

 俺は確実に強くなっている。そういう自負があるからだ。


「強くなっているようじゃねえか。そんなお前に朗報だ」


 黒澤は笑いながら一人の人物を紹介した。

 彼の師匠筋にあたる人だという。


「よろしくな、若いの」


 その男の名は山田大鉄。

 伝説の鬼コーチとして甲山も名だけは知っている人物だった。


「おめえのために特別に個人コーチをお願いしたんだ。逃げたきゃいつでも言いな。誰も責めやしねえからよ」


 本心とも脅迫ともつかぬ科白を残し、黒澤は去った。

 後は、鬼だけが残った。

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