第3話

 甲山サトルは、元々プロレスが好きで入ってきたわけではない。

 彼は学生時代から喧嘩ばかりしていた、いわゆる路上の野犬だった。

 町で強そうな男を見かけては、喧嘩を吹っかけて歩き、タイマン勝負では敗北など喫したことはなかった。

 負けた奴が腹いせに、高校生や大学生を連れて、数を頼みに、お礼参りにきたりもした。


 これは 無論、勝てない。

 叩きのめされるが、それでも終わらないのが甲山の喧嘩師たるところだった。

 相手が独りになった時、喧嘩を吹っかけるのだ。正面から行く必要などない。背後からブロック塀で殴ってもいい。


 要は、最後に誰が立っていて、誰が倒れているかだ。

 喧嘩にはクリーンファイトなど必要ない。

 勝ったといえば、それで勝ちなのだ。


 おかげで甲山には、警察の顔馴染みも数人できた。

 捕まった後、たびたび警官から薦められるまま、空手、柔道と色んな格闘技をややらされた。

 彼らとしては、武の精神に触れることで、更生してほしいという願いがあったのだろう。だが、甲山はどの武道にも染まることはなかった。

 

 路上の喧嘩に匹敵する緊張感が、得られなかったからだ。

――そんな、修羅のごとき人生を歩んでいた甲山も、ついに敗北を知るときがやってきた。

 いつものように、タイマンで気持ちよく相手をぶちのめした帰りだった。

 すでにあたりは暗く、甲山は喧嘩のあとだけに、猛烈に腹が減っていた。


 そんな折、路上で灯りを見つけて駆け寄ると、果たして赤提灯だった。

「毒まむし」と、赤い暖簾に、太い筆で書かれている。

 懐を探ると、ちょうど今さっきぶちのめした奴から巻き上げた金がある。

 甲山は暖簾をくぐり、とりあえず熱燗を頼んだ。

  ふつうにやってることだったが、その店の対応は普通ではなかった。


「――兄ちゃん、歳はいくつだい?」


 と、店の主人が年齢をしつこく聞いてくるのだ。

 喧嘩の帰りで、いつもより気が立っている。

 かっとなり、甲山は思わず胸倉を掴んだ。


「うるせえな、とっとと酒つげってんだよ!」


 そのとき、隣に座って、焼酎を手酌していた酔漢が、彼の腕を掴んだ。


「いけねえなあ若いの。年上にはちゃんと敬意を払わにゃ」


 その中年は、明らかにかなり酒が回っていた。

 体はでかいが、単なる酔っ払いのロートル。

 甲山は見た目で、そう判断し、


「ならこの喧嘩、てめえが買ってくれんのかい」と挑発した。


 意外なことに中年の返答は、


「それもおもしれえなあ」だった。


 二人は、人目につかない空き地に出た。

 中年は上着を脱ぎ上半身をさらした。

 意外に鍛えた体つきだったが、腹は酒の飲みすぎか、だらしなくたるみ、あちこちに年齢からくる衰えが見られた。

 楽勝だとサトルは思った。

 彼も服を脱ぎ捨て、鍛えぬいた若い筋肉を露にした。


「いくぜ老いぼれ! 死なない程度で勘弁してやるからよ」


「ほう、そいつは有難いな」


 中年はニヤリと不敵に笑った。凄みのある笑顔だ。


 サトルは無言で突進した。


「セエイイイイ!」


 ガードを固めて相手の懐に入るや、左右の正拳の連打を胸板に叩き込んだ。

 よろめいた所をトンと手で押し、たるんだ腹に右中段蹴りを叩きこむ。

 会心の脚ごたえに、サトルは満足の笑みをこぼした。

 ちょっとやり過ぎたかと思った瞬間、中年が皮肉っぽく笑みを浮かべた。


「それだけかい、ぼうや?」


 流石のサトルも慄然とした。

 技の入りが浅かったか。


「ちっ!」


 舌打ちして下段蹴り。さらに腹へ正拳を埋め込む。

――効いていない。

 男は笑みを崩さず、両手を伸ばしてきた。

 反射的にサトルは下がった。


 喧嘩三昧でつちかった勘が、この男との接触が危険であることを告げていた。

 この男の肉体もまた異様だった。柔らかいくせに、打撃が浸透している手ごたえがないのだ。まるで弾力のあるゴムの塊を撃っているようだった。


「こいつ、痛覚がないのか」


 どれだけ撃ち込んでも、相手は効いた顔をしない。攻めているのは断然甲山だが、精神的に追い込まれているのは、むしろ彼の方だった。

 みるみる動きに精彩がなくなったサトルは、ついに男に拳を掴まれた。

 まずい。

 そう思考が働いたとき、すでに事態は動いている。

 そのまま巻き込むように腕を脇の下に挟み込まれ、地面に叩きつけられた。

 じゃりっと苦い土の味がした。


「こいつは脇固めってんだ」


  中年が笑った瞬間、激痛が走り、サトルは地をのたうち回った。


「大丈夫、折ってない。ちゃんと手加減しておいたからな」


 すでに男は、彼を解放している。


「抜いただけだ。しばらくはおいたが出来ないだろうがな」


 男は凄みのある笑みを浮かべた。

 サトルは歯を食いしばり、かろうじて言葉を搾り出した。


「名を……名を教えてくれ……」


 男は背中を向けたまま服を着ていた。去り際ににやりと振り返り、


「俺の名は黒澤嘉明ってんだ」


 サトルは猛烈な激痛の中、その大きな背中を見送った。

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