第2話
狭い控え室には、熱気がこもっている。
クーラーは稼働しているのだが、部屋の熱気をすべて駆逐するまでには至っていないようであった。
控え室のモニターは、先ほどのセメントの場面を映しだし、すぐさまCMに入った。まるで見てはいけないものを消し去るように。
無味無臭のCMに画面が変わっても、その男は静かに画面を見つめている。
やがて男は視線をモニターから切ると、柔軟運動を開始した。
試合を待っているのか、念入りな柔軟であった。しかし彼は、足にリングシューズは履いておらず、スニーカーを履いている。
リングで闘おうとする、戦士の格好ではない。
年のころは、もう六十を越えているくらいだろうか。しかし身長は現役のどのレスラーよりも大きく、肩幅もがっしりしている。そのぶあつい肉体は、レスラー出身者としか考えられないほど逞しい。
だが、不思議なことに彼は、プロレスの会場だというのに、場違いにも野球のユニフォームを着ている。
この後、リング上で行う挨拶に何らかの関連があるのだろう。
扉をたたく音がした。
三回、四回。八回。随分念のいったノックだ。
「うるせえな、開いてるだろ」
――すると、おずおずと扉が開き、ライオンマークの入ったシャツを着た青年が、恐縮しきった面持ちではいってきた。
「む、武蔵さん、そろそろそろお時間です」
「もちっと落ち着けよ。それくらいじゃ怒らねえよ。……ただし、金は取るけどな」
「――ええっ!?」
「冗談に決まってるだろ。剣道はしないけどな」
「け、剣道?」
「上段ってね。ンムフフフフ」
その男――超日本プロレス総帥、グレートニオ武蔵は、陽気に笑った。
取るに足らぬ、くだらない冗談。
しかしこの男が笑った途端、場の雰囲気は一変した。
例えるならば、凍える曇天の隙間から射した、暖かな太陽の光といったところだろうか。
どんな人間も魅了してしまうような、そんな笑顔だった。
「――しかし、面白え奴が現れたもんだなあ……」
武蔵はモニターに目を戻し、ぼそりとつぶやいた。
「なにかおっしゃいましたか?」
ちょっと安堵したのか、若手は武蔵に尋ねた。
武蔵は笑みを貼りつけたまま、応えない。
若手は再び、緊張に身をこわばらせた。
武蔵の口元は笑っていたが、目は笑っていない。
それは、どことなく肉食獣を思わせるような、獰猛な笑みであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「――いったい、どういうつもりだァッ! 甲山ァ!」
大男の怒声が、控え室に響き渡った。
「貴様はウチを潰す気か? 積み重ねてきた信頼を壊す気か!!」
周囲の人間は、一様に驚きの表情を隠せない。
それもそうだろう。その怒声の主は、温厚篤実な人柄で選手、フロントにも信頼の厚い、坂田三郎CEOだったからだ。
彼の怒りは、パイプ椅子に腰を降ろし、頭の上からタオルを深くかぶっている男へと向けられている。
タオルをかぶった褐色の肌の男――甲山は、ゆっくりと顔を上げた。
闘いが終わり、その眼光からは、もはや先程の強烈な殺気は消えている。
だが、彼の身体から、なにやら得体の知れぬオーラのようなものが漂い、それがこの控え室に居る他のレスラーの居心地を悪くさせていた。
「――貴様は、会社にどれだけ損害を与えたのか解ってるのか! レスラーがプロレスのマットでガチンコを仕掛けるのがどういう事か、その意味が解ってるのか!?」
らしくもなく、さらに吠える坂田。
しかし、この甲山の雰囲気に呑まれまいと躍起になっているようにも見える。甲山は、三年ぶりにこの超日本プロレスへと帰ってきた。
彼を知る人物は、その変わりように驚いている。
出て行った時の甲山サトルは、もはやどこにもいなかった。
しばしの沈黙の後、甲山はようやく、重い口を開いた。
視線は坂田CEOへと向けられている。
「……プロレスをなめる奴は潰す。それだけスよ」
「何だと――?」
怪訝な顔つきの坂田に対し、さらに甲山は言う。
「俺は牙です。プロレスの牙なんですよ……」
タオルの下から覗く、甲山の決然とした眼差し――それは抜き身の日本刀のように、ぎらぎらと妖しいきらめきを発していた。
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