第2話 アイルランドの酔っ払い

 酒の話をするときに避けては通れない国――、それはアイルランド。

 実は私、かつて一年ほどアイルランドに滞在した経験があります。就職して数年が経った頃、ハマっていたアイルランドの伝統音楽をどうしても現地で習いたくなり、突然会社を辞めて渡欧したのですが…、今思えば恐ろしい暴挙に出たなぁと思います。基本、予定は未定で生きてきた人間です。今も生きながらえているのが奇跡のようです(こんなトンデモなキリギリス女を支えてくれる家族には感謝しかありません)

 現地でアイリッシュミュージックを見たり聴いたり習ったりしたい! と勢いでアイルランドまでやってきたものの、私が始めたフィドル(=バイオリン)という楽器は弾き始めて一年経つか経たないか。音は一通り出せますが、腕前は完全にド素人。持って行った楽器は、ケース込み19,800円の中国製の工場生産という代物。今思えば、布の服と棍棒を持って何の知識もないままハイレベルダンジョンに迷い込んだ人状態でした。若かったし、無知だった。今思えばほんとに恥ずかしいことをいっぱいやらかしましたが、無知だからこそできたことも多かった気がします。

 そんなわけで、現地で音楽についての情報を収集しているうちに、アイリッシュハープの勉強をするためにやってきていた日本人の女の子Sちゃんと知り合いました。色々と情報をもらい、ミルタウンマルベイという町で行われる、アイルランドでも最大級の伝統音楽のサマースクール(ウィリークランシー・サマースクール)の存在を知りました。それは是非参加したい! とはいえ、宿も何も取れていない有様で。ミルタウンマルベイは普段、小さくてのどかな田舎町なんですが、サマースクールの間だけ、突如人で溢れるのです。宿など、とっくの昔に埋まっています。しかしそこはSちゃんのすばらしい人脈にご縁を頂いた結果、同じく日本から音楽修行のためにアイルランドを訪れていたBくんとAちゃんの宿泊先に一緒に泊めてもらえることになりました。おかげで参加決定! 何たるありがたさ! そして何たるお邪魔虫。(後にBくんとAちゃんは恋人同士だったことが判明しましてですね…いやはやその節は大変申し訳ありませんでした…!!!)


 というわけで、やってきましたサマースクール。めぼしい通りが一本しかない小さな町にいくつかのパブがあり、どの店も人でぎっしり埋まっています。通りにまで人が溢れていて、大変な活気。お店からは腕に覚えのある人たちの演奏が聞こえてきて、私のテンションはマックスです。パブに入り、ギネスを注文しようとしていると、知らないおじいさんが話かけてきました。英語もおぼつかない東洋の女などあまり見かけないでしょうし、きっと珍しかったんでしょう。なんだかすでに出来上がっちゃっている雰囲気のおじいさんの英語は、私にとって難度が高すぎました。わかるところは答えつつ何となく対応していたのですが、そのおじいさん、にこにこ顔でお酒をおごってくれまして、延々と同じようなことを話かけてくるのです。要するに、「酔っ払いに絡まれた私」の図式が出来上がっていたのですが、会社の飲み会でおっちゃんに絡まれるのとは違って、そんなに悪い気はしませんでした。ハンチングにツイードのスーツという姿で、身ぎれいにしていらっしゃったせいかもしれません。しかしそのおじいさん、そのうちやたら私の手の甲にチューしてくるようになりまして。う、うーん? これは…? そう、これはきっと、ご挨拶ね、文化が違うんだもの…ここは西洋。そうそう、郷に入れば郷に従えだわな。と思うことにしました。結局、そのおじいさんは店の外までついてきて、ろれつの回らない声で何事かを繰り返し話つつ、手の甲にやたらめったらチューチューしながら、ぎゅうぎゅうとハグして、ようやく去っていきました。気がつけば、私の手はおじさんのよだれでベタベタです。ちなみに、他の特定部位へのおさわりはなしでした。おかげで悪い思い出にはならずに済んでいます。

 どうでしょう…あれは文化の違いからくる出来事だったのでしょうか。いいえ、今なら良く分かります。あれはただの酔っ払いでした。


 それから時は流れ。サマースクールでもお世話になったSちゃんに誘われて「フラー・キョール」という催しを見に行きました。フラー・キョールは、アイルランド音楽の有名なコンクールで、盛大な音楽祭のような催しです。毎年会場を変えて行われるらしいのですが、実は私が行った年にどの町で行われたのかの記憶が定かではなくて…。というのも、私、そのイベントの詳細が何かも分からないまま、ただ誘われるがままにSちゃんに付いていったんです。その町もまた、ミルタウンマルベイ並に小さな田舎の町だったのですが、とにかくフラー・キョールはアイルランド音楽イベントの中でも屈指の人気を誇るらしく、夏に経験したサマースクール以上の人の集まりようでした。とてもじゃないけど宿に泊まれる雰囲気ではなく。そのためか、だだっぴろいテントスペースが用意されていました。ほとんどの人が宿に泊まれないため、みんなテントで夜を過ごすんです。Sちゃんも知り合いに借りてきたテントを持っていました。宿はなくてもこれで大丈夫です。

 町はお祭り騒ぎで浮かれている人々で溢れかえっていました。そこでSちゃんの知り合いの日本人男性で、アイリッシュハープを勉強しているJくんとその友達のXくんとバッタリ出会いました。彼らはテントすら持っておらず、一夜を町の大きな墓地で過ごしたそうです。さすがに墓地には人気はなく、夜間の明かりはゼロ。やたらだだっぴろくて、真っ暗になったらすごく不気味だったのですが…。黒尽くめのXくんの謎めいた雰囲気、そして70年代の少女マンガから抜け出てきたような耽美な雰囲気のJくんが、そんな外国の恐ろしげな墓地に妙にマッチして、やけにシュールだったことを覚えています。

 さて、そんな男性二人に手伝わせて(ただ手伝わせるだけで泊めてあげないという…今思えばひどい女二人組…)日のあるうちに何とかテントを完成させました。お目当てのコンサートを回り、テントに戻った私たち。周りには同じようにテントを張った人たちがたくさんいて、夜は更けてもまだまだ賑やかな雰囲気です。ただ、街灯などはないので、周囲はそれほど明るくはなく。テントに入り、さて寝るか…となりました。そのとき。

 テントのすぐそばで、人の声がします。よく気をつけてみると、数人の酔っ払いの男性が犬のほえ声やら唸り声を真似して、四つんばい状態でテントの周りをぐるぐると回っているんです。「入っちゃうぞ~」みたいなことを言って、時折テントを揺らしてみたり。

 泥酔した酔っ払い数人にテントを囲まれて、私は生きた心地がしませんでした。もちろん、まだまだ周囲には起きている人がたくさんいるし、おかしなことはできないだろうとは思ったのですが、それでもめちゃくちゃ怖かった。Sちゃんもきっとそうだろう、と思って隣をみると…

 寝とるやんけ!

 あんまり気にならなかったのか、Sちゃんは怖がる様子もなく、すやすやとお休みになっています。おいおいまじか。このSちゃん、普段は少し心配症なところがあって、繊細な子だなぁ…と思ってたのに! 他はどんと構えていても、ここはちょっと怖がろう? 不安がろう!? 

 結局、どれくらいそれが続いたでしょうか。酔っ払いは単にからかいたかっただけのようで、テントの中に侵入することはありませんでした。だけどこれはさすがに怖かったです。そして、そんなことなどおかまいなしで安らかに眠っているSちゃんはやはりただものではないと思いました。

 

 このように、酔っ払いとの遭遇率が高い国、アイルランド。治安はとてもよく、私が知る限り、明るい酔っ払いが多かったです。

 ちなみに、この話に登場するみなさんの多くは、現在、プロのミュージシャンとして活躍されています。うっかり混ぜてもらってすみませんっていうか、ありがとうっていうか。

 色々とお世話になりました。皆さんのおかげで、色んな経験ができて楽しかったです。

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