第八色 ⑤
「あっ、いたいた」
「どうした?」
七両が尋ねると、彼は困った顔で、
「実は今日、見世物を披露するはずだったヤツが腹痛で来れなくなってさ。欠番が出たんだよ。突然で悪いんだけど、七両代わりに出てくんない?」
両手を顔の前で合わせて、お願いの仕草をする。
「え? でも、筆が……」
「いいぜ」
「本当か?」
「ああ」
男のヒトの顔がぱっと明るくなった。
「七両! あんた、何言ってんだい?」
「筆ないのにどうするの?」
七両は面倒臭そうに二人を見ると、
「お前ら、先に広場に行ってろ」
「え?」
「演舞に使うもん借りて来る」
「借りるってどこへ?」
常磐の質問には答えず、七両はさっさと歩いて行ってしまった。
※※※
「あっ、ヒショウさん」
「梔子、おつかれさま。お店、だいぶ混んできましたね」
猩々緋は片手を横に振りながら笑顔で答える。
「さっきまで空いていたんだけど、急に混んできちゃって。今日はもうお仕事終わりなんですか?」
「ええ、そうなの。甘いものが食べたくてお邪魔しました」
「猩々緋」
猩々緋と梔子は同時に声のした方に顔を向けた。
目の前に立っている
「いらっしゃい、七両」
「あら、七両。昨日ぶりですね」
穏やかにそう言う猩々緋に頷いてから、
「急で悪いが、あれ貸してくれ」
「あれ?」
梔子が首を傾げる。
「粗末にはしねぇ。約束する」
七両はそう口にした後、事情を話し始めた。
※※※
「七両、どこまで行ったんだろうねぇ。もうそろそろ出番が来るっていうのに」
「うん。そうだね」
少しイライラした様子で呟く常磐に顔を向けてから、琥珀が辺りを見回していると、
「あっ、いた!」
琥珀が前方に顔を向けると、見世物を披露している女のヒトの後ろで、他の見世物の披露者に混じって七両の姿があった。
常磐も同じようにそちらを見る。
「よかった。間にあったみたいだね」
安心した様子の常磐に琥珀も頷く。
やがて、七両の番が回って来た。
彼が前に出た時、観客の表情が変わった。
「あれ? 七両、筆持ってないよ?」
「本当だ。どうしたんだろう?」
七両はと言うと、ざわざわと話し出す観客を気にした風もない。
「何だか騒がしいな。何かあったのか?」
振り返ると、背後から
「あっ。青鈍さん、霞さん」
しかし、背後にいる二人はいつもと何かが違う。「何だろう?」と琥珀が考えていると、
「別に何もないよ。あんたたちも休日まで本当にご苦労だね。悪いけど、こっちは純粋に楽しんでるんだから、邪魔しないでおくれ」
常磐が面倒くさそうにそう言って顔を前に戻した。
琥珀は二人をもう一度見た。確かに、二人ともいつもの武士のような恰好ではない。珍しく着物を着ている。
青鈍が常磐に文句を言おうとした時、霞が声をかけた。
「青鈍さん、あれ」
前を見るように言われた青鈍がそちらを見る。
七両は一礼して顔を上げた後、大きな扇を勢いよく広げた。
「七両のやつ、何であんなものを……」
霞が呟くと、
「もしかして、七両が借りに行ったのって……」
「なるほど、ヒショウさんの扇ってわけか」
常磐が楽しそうに呟いた。
「あいつ、あれで演舞を?」
青鈍がそう口にした時、七両の見世物が始まった。
地面に向かって扇を
一か所に集まっていた色はやがて二つに分かれた。
七両が豪快に動く度に地面の紅色もそれに合わせて動く。
やがて、その形がはっきりとしてきた。二つに分離した色は同じ形を作っていく。頭が出来、胴体が出来、尾ひれが二つ出来上がる。
地面の中を優雅に泳ぎ回っている。
七両が扇を地面に触れさせた時、地面が波打った。
とたんに歓声が上がる。
扇を勢いよく夜空に向かって振り上げると、二匹の魚が地面から出てきて宙を舞った。
再び辺りに歓声が響く。
夜空に舞うのは二匹の金魚だ。
やがて、演舞が終わると七両は頭を下げた。
辺りに歓声と拍手が沸き起こる。
琥珀と常磐も大きな拍手を彼に送った。
青鈍と霞はしばらく呆けていたが、我に返ると、
「あいつ、
青鈍が納得のいかない様子で前に出ようとしたのを、常磐が止めた。
「ちょっと待ちなよ?」
常磐は青鈍の腕を掴むと、指の先まで緑色に染めた。
「何するんだ、お前!」
青鈍の両手は見事に濃い緑色に染まり、石のように固まっている。
観衆を突き進もうとする霞の両足にも同じように緑色で固めた。
「たまにはいいじゃないか?」
常磐は悪びれもせずそう言って笑っている。
つられて琥珀も笑った。
「そういう問題じゃないだろうが」
「こら、琥珀も笑うな!」
霞が琥珀に注意した時、誰かがぽんぽんと彼らの肩を叩いた。
「今度は誰だ?」
二人が振り向くと、
「まあ、二人とも見事に緑色に染まっていますね」
猩々緋はそう言って二人に笑顔を向けた。
「ほら、噂をすれば!」
常磐は嬉しそうに猩々緋を見る。
「区画長、何故こちらに?」
青鈍が驚いて尋ねると、
「七両に扇をお貸ししたのですよ。どんな演舞を披露してくれるのか、気になって見に来たの」
彼女はそう言うと、ふふっと笑って見せた。
「いつもと違う道具だから、とても新鮮に感じますね」
「はい!」
琥珀も笑顔で頷く。
「青鈍、霞。そんなに目くじらを立てなくても大丈夫よ。そうだわ。ちょうど、お酒を買ったところなの。一緒にいかがですか?」
猩々緋はそう言うと、手に持っていた酒瓶を見せた。
青鈍と霞は困惑した顔を向けている。
「いいね、ヒショウさん!」
常磐は大賛成とでも言うように満面の笑みで頷いている。まだ困惑している二人に顔を向けると、
「ヒショウさんがこう言ってるんだ、あんたたちも付き合いなよ? ヒショウさんにあたしの面倒を見させる気かい?」
意地悪く笑みを浮かべると、青鈍が食ってかかった。
「常磐。お前、区画長に面倒をかける気か?」
常磐はそれには答えず、ただ笑っている。
「ほら、霞さんも行こう?」
琥珀は霞の腕を掴むと、半ば強引に歩き出す。
「こら、琥珀。そんなに引っ張るな」
琥珀がふと横に顔を向けた時、一瞬だけだがこちらを見つめる藤の姿が見えた。けれど、すぐに群衆にまぎれてしまった。
「どうした、琥珀?」
「ううん、何でもないです」
顔を前に戻すと、先に歩いている常磐たちの後に続いた。
※※※
一カ月後、女郎花から筆が修復したと手紙が届いた。
七両と琥珀が
「あら、いらっしゃい。待ってたわ。はい、預かっていた筆よ」
彼女から筆を受け取ると、七両は無言でそれを見下ろした。
柄の部分は新しい物に変わっていたが、色も模様も前のものと同じだ。
「ああ、悪かったな。しかし、よく昔と同じものを再現出来たな?」
「ええ。主人がね、なるべく同じものを作るって言ったのよ。こんなに使い込んでいるなら、さぞ大切にしてきたんだろうって」
「
琥珀がそう言った時、七両が口を開いた。
「今日、主人は?」
「いないわ。珍しく外出しているのよ。普段は自分から外に出ないのに」
「なら、あんたから伝えてくれ。直してもらって感謝している。今後も大切にするってな」
「分かったわ」
女郎花は笑顔で頷いた。
その時、店の引き戸が開いた。別の客が店内に入って来るのが見えた。
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