第八色 ④

 その日の夕方、七両しちりょう琥珀こはくが入浴するため一階にある風呂場に向かった時だ。風呂場と廊下を隔てている引き戸の前に紙が貼られていた。そこにはでかでかと『使用禁止』の文字が躍っている。

 「あれ? 入れないの?」

 琥珀が呟いた時、

 「七両、琥珀」

 通りかかったのは、同じく三階の部屋に住む白群びゃくぐんだ。

 「何かあったの?」

 「それがさぁ、風呂釜がダメになったんだよ。二階に住むやつらが酒飲んでから風呂に入ったらしくて、酔った勢いで釜壊しやがってさぁ」

 「えー?」

 琥珀が固まっているのを気にせず、七両が尋ねる。

 「それで、風呂釜壊したヤツは誰なんだ?」

 「青朽葉あおくちば杉染すぎそめ竜胆りんどうの三人」

 琥珀は三人の顔を思い浮かべた。三人とも社交的で一緒にいて楽しいヒトたちだ。

 七両が仕事で不在にしている時も何度か彼らのお世話になった。ただ、三人とも酒が入るとその勢いが止まらなくなることもしょっちゅうだ。

 「ちっ、あの馬鹿どもか」

 七両は眉間にシワを寄せた後、琥珀に顔を向けてから、

 「しょうがねえから、湯屋行くぞ。部屋戻って必要なもん持って来る」

 「うん。白群は?」

 「俺はさっき行って来たばかりだよ。今行けば混んでなくてちょうどいいと思う」

 琥珀は頷いた後、白群と別れて階段を上る七両の後に続いた。


 ※※※


 一画いちかくにある湯屋は白群びゃくぐんの言う通り、ちょうどいい込み具合だった。客で込んでいる時は早めに出て来ないといけないのでゆっくり出来ないが、今日はゆっくり浸かることが出来た。

 琥珀は湯屋に隣接しているお茶を無料で提供している箇所で、煙管を吸いに行った七両を待っていた。

 くつろぎながらお茶を飲んでいた時、見覚えのある女のヒトが湯屋から出て来るのが見えた。

 「女郎花おみなえしさん」

 「あら、あなたも来ていたの?」

 女郎花が笑顔でくと、

 「はい。風呂釜が壊れちゃって」

 「あら、それは災難だったわね。ところで、さっきの髪の紅いお兄さんが見えないけど?」

 「七両は煙管吸いに行ってます。もう少しで帰って来ると思いますけど。あの、女郎花さんは一人で来たんですか?」

 琥珀が尋ねると、女郎花ははっとしてから左右を見回した。琥珀に顔を戻してから、

 「いいえ、夫と来たのよ」

 「もしかして、さっきお店で会った男の人ですか?」

 彼女は頷いてから、

 「ええ。すぐにどこかへ行ってしまうのよ。何も言わずにね」

 女郎花は微笑してそう言った。

 「あの、旦那さんって人間ですよね?」

 「そうよ、あなたと同じ。だいぶ前にこの街に来たの」

 「だいぶ前、ですか?」

 女郎花は首を縦に振ってから、

 「あなたが生まれる前からね」

 琥珀はその答えに目を丸くした。どういうことかこうとした時、

 「おーい、琥珀」

 聞き覚えのある女のヒトの声が聞こえた。

 「じゃあ、あたしもう行くわね。あのお兄さんによろしく」

 「はい。あの、七両の筆お願いします」

 女郎花はにっこりと微笑むと、琥珀に背を向けて歩き出した。

 琥珀が声のした方を振り返ると、緑色の髪を肩くらいまで伸ばした背の高い女のヒトが駆け寄って来た。

 (こ、このヒト知り合いだっけ?)

 会ったことがあるのかもしれないけれど、誰なのか思い出せない。琥珀が必死に思い出そうとしていると、

 「やだねぇ、あたしだよ? 常磐ときわ

 「え? 常磐?」

 琥珀は驚いて、声を上げた。

 確かに常磐の声だ。髪型がいつもと違うせいで気付かなかった。

 「ごめん。髪型が違うから気が付かなくて」

 顔を伏せてそう言うと、常磐は笑って、

 「そうだと思った。そういえば、琥珀の前で髪を下ろしているのは初めてかもしれないねぇ」

 常磐は自分の髪を撫でてそう言った後、七両がいないことに気付くと、

 「七両は一服中かい?」

 煙管を吸う真似をしながら、琥珀に尋ねる。

 「うん。でも、もう少しで戻って来ると思う」

 「よう、常磐」

 背後から七両の声が聞こえた。どうやら一服が終わったようだ。

 「七両、筆のこと聞いたよ。性質たちの悪い男たちに絡まれたって」

 「ああ。猩々緋しょうじょうひが止めてくれたんで大事には至ってねぇ。それに、今日修理に出しに行った。一カ月くらいかかるんだと」

 「そっか。でも直るんならよかったじゃないか」

 常磐はそう言うと、再び琥珀と話し始めた。

 七両はそんな二人を眺めながら、さきほど喫煙所にいた時のある出来事を思い出していた。


ーーーーーーーー


 「さっき一緒にいた子供はどうした?」

 七両が煙管を咥えたまま顔を上げると、ふじが目の前に立っていた。

 「別の場所で待たせてる」

 「あの子供は人間だな? お前が連れて来たのか?」

 「ああ、そうだ」

 琥珀が人間であることも、彼を連れて来たことも事実だ。(本当は紅月が連れて来たのだが)

 七両は再び煙管を咥えると、煙を吐き出した。煙管を離した後、

 「今度は俺が質問させてもらうぜ? あんた、何時からこの街にいるんだ?」

 「二十年前からだ。動けなくなっていたところを女郎花に助けられた」

 「動けなくなっていた?」

 「襲われたんだ、街のヤツらにな。いちゃもんを付けられた。何故こんなところに人間がいるのかってな」

 七両は黙って彼の話を聞いていた。

 「へぇ。客の前に姿を現さないのは、それが理由か?」

 藤は答えない。ただじっと七両を見据えている。

 「まあ、別にいいけどな。俺は筆を直してもらえりゃそれでいい」

 七両が藤の横を通り過ぎようとした時、

 「あの人間の子供を頻繁に外に出しているのか?」

 「だったら、どうした? 琥珀を外に出すなって言いてぇのか? 余計な世話だ。あいつはあいつなりにこの街に馴染んでるぜ?」

 七両はそれだけ言うと、琥珀が待つ場所へと戻ったのだった。

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