第8話 その世界にさよならを

 もう、この桜の木の前に立つようになって何年経っただろうか。

 いったい何度、この樹が落とす桜の花びらに、身を包まれただろうか。


 そっと樹の幹に手を添える。

 ごつごつとした樹皮の感触は、僕なんかよりもはるかに長い時間生きてきた、命の重みを感じさせる。


 手を滑らせると、そこには生々しい傷跡があった。深くえぐれて、樹皮の下の組織部分まで見えるその傷跡からは、鋭い刃物で、何度も何度も切り付けられたことが分かる。

 僕が、付けた傷だ。


 ごめんな、と心の中でつぶやく。

 二度、呟く。


 一つ目は、これまで沢山傷つけたことに対しての謝罪。

 そしてもう一つは、これから傷つけてしまう事への、謝罪。


 これで最後だから。

 なんの免罪符にもならない呟きは、とっぷり暮れた宵の闇に飲まれて消えた。


 異世界と、こちらの世界。

 どちらも僕にとってかけがえのないものになった。

 それはとても贅沢なことで、ありがたいことで。

 この奇跡に、感謝しなくてはならないと思う。


 けれど、奇跡は当然、永遠には続かない。


 僕は選ぶ。

 僕は選んだ。


 僕はずっと、ニチェとアーニャの世界を「異」世界と呼んでいた。

 こちらの世界に、「帰って」来る、と言っていた。

 向こうの世界に「行く」と言っていた。

 それは最初から今までずっと変わらなかったことで。

 それはつまり、この世界が僕にとって戻ってくるべき場所であるという事なのだと、思った。


 僕は、この世界で生きる。

 両親が生んでくれた、ニチェもアーニャもいない世界で生きる。

 そう決めた。


 あの世界はきっと、僕がこれから生きていくために必要な心構えを。有り様を、強さを、弱さを、人の温かさを。

 教えてくれるためにあったんだ。

 ふらふらしていた僕を導くための世界だったんだ。

 ならば今。

 完璧とは程遠いけれど、それでも少しずつ自立している僕には、もう必要がないだろう。

 そう思った。

 そう思うことにした。


 手になじんだ鉈を構え、何度も打ち付けた桜の木の樹皮に対峙し、僕は目を瞑る。


 鉈を振りかぶる瞬間、生ぬるい風が、頬を撫でた。桜色の花吹雪が、僕を包む。

 瞬間、僕の脳裏を、まるで走馬灯のように、今までの記憶が走り抜けた。


 ババ様との出会いを思い出した。


 ニチェとアーニャとの出会いを思い出した。


 彼女たちとの会話を思い出した。


 コボルトとの邂逅を思い出した。


 アーニャの静かな優しさを思い出した。


 ニチェの激しい優しさを思い出した。


 視界が歪む。


 嗚咽がこぼれる。


 きっとみっともない姿をしている。


 ニチェとアーニャは、こんな僕を見て、なんて言うだろうか。


 アーニャはどうしたの? と優しく聞いてくれるだろう。

 ニチェは、また泣き虫に戻った! と騒ぎ立てるだろう。

 どうせ数分後には、自分だってボロボロ涙を流すにきまっているくせに。


 泣くかな?

 泣いてくれるかな?

 泣かしたくないけど、彼女たちの涙を見たくはないけれど。

 でも、やっぱり悲しんで欲しいな。

 はは、僕って自分勝手な奴だ。


 これで、最後にする。

 みんなに挨拶をして、そしてこちらに戻ってくる。

 その後はもう二度と、僕は向こうの世界に渡らない。


 最後にするから。

 あぁ、だからどうか。



 今狂おしい程に咲き誇っている、桜の木よ。

 死期を悟ったかの如く、狂い咲いた桜の木よ。



 どうか、後一度、耐えてくれ。


 僕が世界を渡ることを許してくれ。


 数限りない謝罪を込めて、あふれるくらいの感謝を込めて。

 僕は鉈をふるった。

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