第3話 ニチェとアーニャ
「にゃはは、さっきはカッとなって叩いてしまって悪かったのぅ、ほれ、お食べ」
「ど、どうも」
訳も分からぬまま、僕は近くの村に案内されていた。
この猫の化け……おばあさんは、自分の事をババ様、と名乗った。
案内された先は、ババ様の家だった。見たことのない造りの家だなぁ、なんてあの頃は思っていたけれど、今から思えば、あれは茅葺屋根の家だった。
「さて、カナタ、と言ったかの? お主、別の世界から来たのじゃろう?」
「は、はい! ぼ、僕神社の裏にある空き地にいたんですけど、それで鉈をとろうとして、転んで、それで桜の木を傷つけちゃって――――」
「んー、早口過ぎてなんだかよく分からんが、大体の事は察しが付く。お主のように、『異なる世界』からやってきた人は、他にもおったのでなぁ」
「そ、そうなんですか……?」
「遠い遠い、わしが生まれるよりさらに前の話じゃがの」
ずずっとお茶を一口飲んで、ババ様は続けた。
「あのリムの木には、不思議な力があるらしくてなぁ」
「リムの、木?」
「あー。向こうの世界では『サクラ』と言うんじゃったか?」
なるほど、こちらの世界では桜の木のことをリムの木と呼ぶのか、と僕は頷いた。
この時の僕は知る由もないけれど、この世界には、僕らの世界とは違う呼び名の物がそれこそ山のようにあった。
結局、僕はその全てを覚えることはできなかった。
「あのリム……いや、あの桜の木の幹を傷つけると、異なる世界間を行き来できるのじゃ。お主の世界で傷つければ、こちらに。こちらの世界で傷つければ、あちらに」
「……ということは」
「左様、帰る事は容易い。来ることもな」
「……」
ババ様の話を聞き、僕は複雑な心境になった。
こっちに来てからずっと、両親の顔がちらついていた。帰れなくなったらどうしようと。けれど、よくよく考えてみれば、僕はそれ以前に――――。
もやもやとする思考を断ち切りたくて、僕はババ様に質問した。
「そんなに簡単に行き来できるなら、もっといろんな人が来てそうですけど……」
「ふむ、中々に聡いのう。歳はいくつじゃ?」
「は、八歳です」
「ニチェと一緒か……主が聡いのか、うちのが阿呆なのか……」
「にちぇ?」
また何か知らない単語かと思い、聞き返した僕に、ババ様は首を振って応えた。
「すまぬ、こちらの話じゃ。左様、お主の考える通り、世界間を行き来する条件が、鉈で桜を傷つけるだけであれば……もっと多くの者たちが行き来しているじゃろう」
「じゃぁ……」
「条件はもう一つあるらしいのじゃ……カナタ、お主、『死にたい』と思っておるのか?」
「――――っ」
突然、見透かされたように言い当てられた僕は、嘘を付くこともできず、思わず口ごもった。
無言の肯定、というやつだったのだろう。
ババ様は悲しそうに顔を歪め、それまでで一番優しい声音で言った。
「よければ、話してくれんか?」
自分でもとても現金な奴だ、と思うのだけれど。
数拍の後、僕はぽつりぽつりと身の上話をした。
きっとそれは、相手が身内でも、知り合いでも、ましてや、僕の世界の住人ですらなかったからだと思う。そして、ババ様の声が、表情が、雰囲気が、とても優しかったからだと思う。
全てを話し終えると、ババ様はゆっくりと立ち上がり、僕の傍に座り、そしてそっと僕を抱きしめた。
もふもふの毛と、温かな太陽の香りが僕を包んだのを、よく覚えてる。
「かわいそうにのう……よく今まで耐えたのぅ……」
「……」
正直、泣きそうだった。
鼻の奥がつんとして、目の奥がかっと熱くなって、ぽろぽろと涙がこぼれるのは時間の問題だったけど、初めてあった人の前で泣くのは恥ずかしい、という我ながら無駄なプライドが、それを押しとどめていた。
「言い伝えでは、あの木は人生に苦悩する者が現れた時に、世界間の架け橋となるそうじゃ。そして、その者の行く末を見守る、と。それがどんな意味を持つのかは分からぬ。けれど、お主がここに来た事、わしに出会ったことは、運命だと思うのじゃ」
ぽふんぽふん、と頭に弾力のある何かが当たった。視線をあげると、ババ様が僕の頭を撫でてくれていた。大きな肉球に撫でられるなんて、中々ない経験だったと思う。
「この世界を、この家を。お主の心の癒しにすればいい。逃げ場所にすればいい。叶うならば、支えになればいいと思う。あしげく通ってくれても良い。なんなら、住んでくれたって構わない。命を投げ出すのではなく、そうして少しずつ、傷ついた心を癒してみては、どうじゃろうか?」
出会ったばかりで。しかも相手は人ですらなくて。
そんな奇異な状況でそっと差し出された提案は、僕の心に驚くほど綺麗に染み渡った。
「はい、お願い……します」
どうせ僕の世界には友達なんていない。学校が終わった後は、いつもいじめられている。
こちらの世界に来れば、あいつらは追ってこれない。解放される。
一度は死を決意した僕だったけれど、ババ様の優しい言葉と提案は、その浅はかな決断を思い留まらせるのに十分な力を持っていた。
本当に、ババ様には頭が上がらない。
僕の返答にほっとしたのか、ババ様はにこりと笑うと、そうじゃ、と呟き、部屋の外に向かった。
「ちょっと待っておってくれ」
「はい……?」
どうしたんだろう、と小首をかしげて待つこと数分、彼女たちは現れた。
とたとたという軽い足音と、楽し気な笑い声が近づいてきて、僕は思わず身を縮こまらせたっけ。
「カナタ、紹介しよう。わしの孫娘、ニチェとアーニャじゃ。ほれ、二人とも挨拶をし」
「アーニャです。カナタ君、初めまして」
「は、はじめまっうわぁあああ!」
「うひゃぁっ! 耳がない! 尻尾もない! お肌ちるちる! きゃははははは!」
気づいた時には、僕は既にやんちゃな女の子に押し倒されていた。
これも後で知ることだけど、この世界の住人「ヌコ族」の皆は子供の頃は毛が薄くて、徐々に毛深くなる。
小さいころの見た目は、耳とか尻尾を除けば、結構人に似ていて。
そんな見た目をしているから、押し倒された僕は彼女の肌のぬくもりとか、息遣いとかにすごく動揺したのを覚えている。
「こりゃニチェっ! あんたは本当に落ち着きがないねぇ……少しは姉のアーニャを見習ったらどうだい?」
「えー、ニチェはニチェ、アーニャちゃんはアーニャちゃん。そうでしょう?」
「いつの間にか口ばっかり達者になって……」
「ねーねーカナタくんカナタくん! 違う世界から来たんでしょう? どんなところなの? 住んでるのは皆カナタくんみたいな見た目なの? どんな食べ物をたべてるのどんなところに住んでるの! おーしーえーてー!」
「え、と。あ、あの……」
あの時の僕は、あー、目はやっぱりネコっぽいなぁとか、結構可愛い顔してるなぁとか、ていうか顔近いなぁ、とか。
そんなどうでもいい思考ばかりが頭をしめていた気がする。きっと、いきなりのことで混乱してたんだろうな、うん。
「にーちぇー?」
「ひゃうっ!」
アーニャにきゅっと首根っこを掴まれて、ニチェはくるんと丸くなった。
ほんと、何から何まで猫みたいだった。
「ごめんねカナタ君。私は姉のアーニャ。この子が妹のニチェ。カナタ君と同い年で、私は二人より五つ年上なの。何か困ったことがあったら、いつでも言ってね?」
アーニャはとてもしっかり者で、やんちゃで元気いっぱいなニチェをどうにかできるのは、彼女だけだった。
こういう表現が適切かは正直分からないんだけど……二人ともとても可愛くて、美人で。僕は内心とってもどきどきしていた。
元気、という文字に手足と耳と尻尾が生えたみたいなニチェ。
おしとやかさと気高さに、これまた手足と耳と尻尾を添えたみたいなアーニャ。
二人との出会いは、僕の人生にとってかけがえのないものだったと、自信を持っていう事ができるよ。
ありがとう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます