出発準備

 カナメの世界には思い立ったが吉日という言葉があるが、どうやらこの世界にも「リョーカ山の鹿を逃がさない」という言葉があるらしい。

 というわけで庭の竜鱗騎士の問題が片付いたならば、いよいよ出発準備である。

 数日を過ごし自宅のような感覚になってきた銀狐の眉毛亭ではあるが、引き払うとなれば実にアッサリとしたものだ。

 元々冒険者というものは荷物を少なく纏める事に長け、余計なものは一切持たない。

 そのコツは「万全」ではなく、「命に関わる危機を回避できる程度」という基準を持つことだ。

 それにより、無くても死にはしないな……という判断をできるようになるわけだが、当然のようにカナメにはそういう基準はない。

 もっともカナメは新たに買い足してもいないので荷物自体は増えていないが、収納術に関してはド素人だ。

 詰め込むのではなく見た目をコンパクトに収納するのは確かな技であり、カナメが困っているのを悟ったイリスとエリーゼはカナメの手伝いにきている。

 そんな二人の荷物はどうなのかといえば、イリスは早々に準備を終え……エリーゼの荷物はハインツが完璧に準備を終えている。

 アリサはハインツと共に必要な消耗品の買い足しと馬車探しに出かけている為、少しばかり珍しい組み合わせがこうしてカナメの部屋に揃っている。

 カナメの服を嬉しそうに……丁寧に畳んでいるエリーゼの横では、カナメがエリーゼには任せられない衣類……下着をよけて鞄に仕舞っている。

 流石に恥ずかしいからだし、本当は服も自分でやりたいのだが……今はこうしてやり方を見て覚える事に徹している。

 その向かい側ではイリスが細かい品のチェックを行い、頷いたり唸ったりを繰り返している。


「……そういえば、リョーカ山のたとえって有名なのか?」

「え?」

「いや、アリサがさっきリョーカ山の鹿を逃がさないって言ってたけど。前にもリョーカ山の遥か先に行ってる……とかって事を言ってたなあって」


 あれは確か「機会は逃せば二度と訪れない」という意味だと説明されていたが、今回も出てくるということは相当有名な「元ネタ」があるのだろうとカナメは想像したわけだが……イリスはその通りですと頷いてみせる。


「確か神話……だったかしら?」

「人気の説話ではありますけど、神話とは違いますね。おとぎ話に近いものがあります」


 エリーゼの呟きにそう答えると、イリスは弄っていた水袋をぽふっと地面に置く。


「そう、それは昔々の話。破壊神が生まれ出でるよりも更に昔。神々の祝福が世界に今よりも満ちていた時代の話です」


 リョーカ山の麓には小さな町があり、そこには町一番と評判の美人の娘が居た。

 誰もが嫁にと望むその娘に、町で暮らす狩人の男もまた恋をしていた。

 とはいえ、ただの狩人でしかない男には娘に求婚する為の贈り物が思いつかない。

 どうしたものかと悩む狩人はいつも通りに山へ行き、そこで仕掛けた罠に見たこともないような立派な鹿がかかっているのを見つけたのだ。


 おお、素晴らしい。これ程立派な鹿であれば素晴らしい贈り物となるだろう。

 そう喜ぶ狩人の男に、しかし鹿は口を開き「お待ちください」と告げたのだ。

「どうやら私を何方かへの贈り物にするご様子。しかし、それは何処の何方なのでしょう?」と鹿は問う。

 喋る鹿に驚きつつも狩人の男は「村一番の娘にお前を贈るのだ。喋る鹿ともなれば生かしたままでも贈り物に申し分ない。お前が抵抗して死んだとしても、その立派な身体は充分な贈り物になる。実に素晴らしいことだ」と答えるが……鹿はこれに「いけません」と首を横に振る。


「私を生きたままその娘に捧げれば、私は囚われた悲哀を日夜歌うでしょう。殺すとなれば、貴方は愛する人に「死」を捧げることになる。死を捧げ愛を願うというのは、その娘に相応しいでしょうか?」


 言われて狩人はうっと呻き「ならばお前には何か案があるとでもいうのか」と問いかける。

 どうせ殺されたくないが故のその場しのぎだろうと嘲る狩人に、鹿は「勿論です」と笑う。


「この罠を外してくださるなら、私はそれを教えましょう」と言う鹿に、狩人は半信半疑ながらも鹿を捕らえていた罠を解除する。

 すると鹿は数歩駆けた後振り返り、こう狩人に告げる。


「この山で最も古い木の育てた宝石のような果実を贈られると良いでしょう。その美しさもさることながら、食した者に美をもたらすというその効能。愛の贈り物にきっと相応しい」


 山の中ならば自分は木こりよりも詳しいと自負していた狩人は、それは素晴らしいと膝を叩いて喜んだ。

 そんな果実を両手一杯に贈ったならば、あの娘もきっと振り向いてくれる。

 そう考える狩人の頭の中からは、鹿の事など一切消え去ってしまっていた。


 しかし、リョーカ山で最も古い木に生えていたのは何処にでもあるようなリンゴ。

 確かに宝石のように美しいし食べた者に美をもたらすかもしれないが、リンゴはリンゴ。

 山のようなリンゴを抱えて娘に求婚する間抜けな自分が頭に浮かび、狩人は「騙された」と地団太を踏み鹿を追いかける。

 ……けれど。すでに鹿はリョーカ山の遥か先。山の向こうの山の、更にまた向こう。

 如何に凄腕であろうと狩人の男が追いつけるはずなどないのであった。


「とまあ、こんなお話ですね。色んな教訓が含まれてるからと人気でして。レクスオール神殿の神官は全員これを暗記する程話してますし、話せば間違いなく人気がとれる説話でもあるんですね」

「へえ……なんかこう、上手い話に騙されるなとかってのも含んでそうだよな」

「その通りですよ。他にも過信の恐ろしさとかも教えてますね」

「勉強になるなあ」


 頷くカナメを、エリーゼが横からちょんと突く。


「手が止まってますわよ、カナメ様」

「あ、ああ。ごめん」


 言いながらカナメは、ベルトのチェックを始める。

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