ノック
「……ふむぅ」
歩いていくエリーゼを見送ると、イリスはそう呟いて首を傾げる。
何があったかは分からないが、「何か」があった。
本人が話そうとしない限りそれを聞くのはマナー違反だし、探るつもりもない。
……が、あれは間違いなく人間関係絡みの何かだとイリスは確信していた。
となると、最低でもあと一人は悩みを抱えた誰かがいるかもしれない。
その悩みを可能な限り軽くしてあげるのは神官としての責務であるし、戦いの前夜に憂いを消し去るのは騎士としての責務だ。
つまり、神官騎士であるイリスには「もう一人」の様子を見に行く責務が生じてしまっている。
とはいえ……相手は誰なのか。
エリーゼから人間関係の矢印を引けば、真っ先に思い当たるのはカナメだ。
カナメへの好意は明らかだし、それ絡みで何かあったという可能性はある。
次点がアリサとハインツ。特にアリサだろうか。
アリサとカナメの事で何かがあり、それでケンカしたという可能性もあるだろう。
カナメはアリサに何らかの好意的な感情を抱いているようだが、それがエリーゼがカナメに向けている好意と同種かと言われれば多少首を傾げざるを得ない。
……だが、アリサがカナメをどう思っているのかはいまいち不明だ。
直接的なアプローチも間接的なアプローチもイリスの知る限りでは無いし、かといって浅い関係というわけでもなさそうだ。
この辺りは、悩んでも仕方ないだろう。
悩みながら歩きカナメの部屋の前に到着したイリスは、事前通告無しでドアを開け放つ。
無論鍵がかかっている可能性はあるが、イリスがその気になれば鍵だろうとカンヌキだろうと無いも同じだ。
「こぉんばんは、カナメさん!」
幸いにも鍵もカンヌキもかかっておらず、満面の笑顔を浮かべたイリスは部屋の中のカナメに視線を向ける。
すると、ビックリしたように口をポカンと開けたカナメがその手から赤い矢をポロリと落とし……その顔を見てイリスは「あはは」と笑う。
「カナメさん、お口開いちゃってますよ?」
「え。あ、いえ。ていうかノック……」
「次から努力しますね」
「いや、次とか……」
呆れたような顔をするカナメをじっと見ながら、イリスは隅から隅まで観察する。
カナメの様子は先程会った時と変わらないように見える。
見える……が、少しばかりの違和感を感じた。
集中しているようで集中していないような……無理矢理の集中にも似たものが見えたのだ。
「え、いや。努力って。ノックって努力するものでしたっけ?」
反応も微妙に鈍い。
元からかもしれないが、「何か」が思考の大部分を占めている可能性はある。
これは、確定だろうか。
そう考えると、イリスは笑顔のままベッドに腰かけているカナメの横に座る。
するとカナメは明らかにギョッとした顔になり……素知らぬ顔で、イリスはカナメに笑いかける。
「だって、ノックするってなんだか嫌じゃありません?」
そんなイリスの言葉に、カナメはキョトンとした顔をする。
頭の中を占めていた「何か」が一時的にせよ出ていきイリスの言葉を考え始めた証拠だ。
カナメはしばらく悩むように視線を彷徨わせると「え? そうです……か?」と否定も肯定もしないような微妙な返事を返す。
どちらかというと否定的だが、頭ごなしに否定するのもなんか悪い気がする。
とはいえ肯定するのも違う気がする……と。そんな考えが透けて見えるかのようなカナメの返答にイリスはくすくすと笑いながら「ええ」と答える。
「だってノックをして返答を待ってから入るってことは、その人向けの「余所行き」の仮面を被る時間を待つってことじゃないですか」
「そう、ですね?」
カナメだって、人に見られたくない時くらいある。
同様に相手にも同じ時がある事くらい理解しているし、ノックはそういう時の為の礼儀だと思っている。
だから、カナメはイリスにこう返す。
「でも、誰だって嫌われたくないし嫌いたくない。だから「余所行き」の自分になるっていうのは普通なんじゃないですか? ていうか、当然というか礼儀というか……」
「そうですね。「見てはいけない」ものを見たことで何かを破綻させてしまった昔話もたくさんあります」
「だったら……」
「でも」
イリスは、カナメの言葉を遮る。
だったら、ノックも必要なことなんじゃないか。
そう言うのは分かっている。それが普通だ。
でも、それでも。
「そうしたものを抱えた関係は、正しいんでしょうか?」
「え?」
「見られたくないもの、知られたくないもの。露見することで積み上げた全てが破綻してしまうようなものを抱えている。それを互いに隠して生きる関係は、幸せでしょうか?」
こういう人だとは思わなかった。
こんなものが。
こんなことが。
露見する事で破綻するのは、それが相手には理解できない……共有できないものであったが故だ。
ならばそれは、いつか破綻する運命にあったのではないだろうか?
「ノック一つの度に、抱えたものが大きくなる。それはやがて大きくなりすぎて、隠しきれなくなって……致命的な傷を両者に与える。それは、何より不幸なことだと……そう思いませんか?」
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