夜の村広場にて

「えーと、井戸、井戸……」


 村の広場らしき場所までやってきた要は、井戸を探して辺りを見回す。

 こういうものは共用の場所にあるのが相場だという考えで来たのだが、幸いにも目的のものは広場の中央に鎮座していた。


「お、あった!」


 駆け寄って、要は井戸の横に持ってきた桶を下ろす。

 どうやらロープを引いて滑車を動かすタイプの井戸のようで、要はロープをぐいと引っ張り水を汲み始める。

 なれない作業も何度かやれば慣れてくるもので、大きめの桶はすぐに水で一杯になる。

 何度か……というのは最初の一、二回目で失敗したからだが、それはともかく。


「よし、これを持っていこう……って、重たっ!」

 

 水の入った桶を要が何とか持ち上げると、その背後から「おや!」と声がかけられる。


「う、うわわ!?」

「ああっ!?」


 驚いてバランスを崩した要の手から桶が離れ、ざばあと音を立てて水が零れていってしまう。

 それを要が絶望した目で見ていると、今度は背後から「すみません……」という申し訳無さそうな声が聞こえてくる。


「だ、誰だよ!? 俺がせっかく……」

「ほ、本当にすみません! こんな所でお見かけしたものですから!」


 振り返り抗議する要に、そこにいた男がヒエッと叫びながら頭を下げる。

 村長同様にガッシリとした体格の男だが、村長と比べると随分気が弱そうではある。

 そんな男に頭を下げられて、要の怒りはすぐに萎んでいってしまう。


「ああ……いや、こちらこそ怒鳴って申し訳ないです。俺が気をつけれれば良かったことですし」

「いえいえ、そんな! あ、それで……こんなところで何を?」


 早速話題を切り替えた男の顔にはすでに申し訳なさなど微塵もなく、「意外としたたかなのかな……」などと思いながらも要は「水汲みです」と答える。


「……水汲み、ですか? それで何故此処へ」

「へ?」

「井戸でしたら、お泊りになっている家の裏手にございましたのに」

「ええっ……」


 聞いていない、が考えてみれば当然だ。

 歓待用の屋敷が村の中心ではなく端にあるということは、当然そこで全て賄えるようにされていると考えるべきであったのだ。

 もっと言えば、こんな小さい村に井戸が幾つもあるわけないと無意識に侮った要の大失敗である。


「そ、そっかあ……そりゃそうだよなあ」


 思わず膝をつきそうになる要であったが、すぐに気を取り直して桶を持ち上げる。

 それなら、早く戻って水を汲まないといけない。


「あ、えっと。どうもでした。それじゃ……」

「あ、お待ちを!」

「はい?」


 走り去ろうとした要は男に呼び止められ、振り返る。

 まだ何かあるのかと思ったが……どうやら、此処からの方が男は本題であったようだ。


「え、えっとですね。冒険者様は何か仰ってましたか?」

「へ?」

「あ、いえいえ! 何しろモンスターなんて村の一大事なもんですから、気になって」


 不自然にも見える男の様子に要は一抹の不安を覚えるが、出来る限り気楽そうな笑顔を浮かべて要は「うーん」と唸ってみせる。


「ヴーン程度なら楽勝って言ってましたかね」

「そ、そうですか。それはよかった! きっとお強いのでしょうね!」

「……ええ。俺の知る限りでは最強ですよ」


 言いながらも、要は今すぐにこの場から離れたくて仕方なかった。

 話せば話すほどに不安が湧き上がる。

 まさか此処が、と。そんな思いばかりが強くなってしまうのだ。


「それじゃ、俺はこれで……」


 そう告げて、要は身を翻して。


「ギャアアアアアアアアア!」

「ギャア、ギャアアア!」


 そんな悲鳴のような金切り声に、思わず耳を塞ぐ。

 悲鳴……いや、悲鳴ではない。

 これはヴーンの鳴き声だ。だが確かアリサはヴーンは人の生活圏には近寄らないと言っていたはず。なら、何故。


「ヒイ、や、やっぱりだ! 決壊が……!」

「決壊!? っておい! 待て!」

「ひゃあああああ!」


 逃げていく男を追おうとして、その素早い逃げ足に要は舌打ちする。

 ナイフは一応ズボンのベルトに挟んではいるが、万が一ヴーンが五匹も来たら要では勝てそうに無い。

 ……そして、今の鳴き声は相当近かった。


「とにかく、アリサのところに……」

「うごぁ」

「あ?」


 振り向いた要の背後にあったモノは、灰色の大男。

 月明かりの下で棍棒のようなものを振り上げたソレに要は全身総毛立ち、ほとんど本能的に右へと跳ぶ。

 その一瞬後に灰色の大男の棍棒が桶ごと地面を砕き、その破壊力に要はぞっとする。


「な、なな……」


 人ではない。

 赤く光る目と、口からちらほらと見える牙。

 何かの皮を腰にまいた簡素な服は原始人か何かのようで、異常なほどに盛り上がった筋肉はそれ自体が鎧であるかのようだ。

 当然ながら、要のナイフでは傷をつけるのが精一杯だろう。

 殺しきるよりも、要の身体がバラバラに吹っ飛ぶ方が早そうである。


「うわああ!」

「ぎゃあああ!」

「た、助けてぇ!」


 気付けば、辺りでも悲鳴が起こり始めている。

 それと同時に要は自分の嫌な予感が現実になり始めたのを感じ、嫌な汗が滲んでくるのを止められなかった。


「あ、ああああああああああ!」


 灰色の化け物に背を向けて、要は逃げるように走り出す。

 振り下ろされた棍棒が要のすぐ後ろの地面を砕くが、振り返りはしない。

 

 始まってしまった。

 始まってしまったのだ。

 あの「夢」の始まりが、此処で。

 だが、まだだ。

 まだ、「赤」は無い。

 ならば、変えられる。ならば、逃げられる。

 アリサが言っていたように、逃げられる。

 そうすれば、全部。


「カナメ!」

「あ……」


 叫ぶ声。それでようやく要は前方にいるアリサに気付き、しかしすぐに驚愕に目を見開く。


 夜空に舞う、巨大な「赤」。

 それは間違いなく、あの時要が見たドラゴン。

 翼を広げて飛ぶソレは悠々と夜空を飛来して。


 そして天から、鮮烈なまでに赤い炎が降り注いだ。

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