最終話 赤い目の女達
「怪談を蒐集することなんて もう辞めてしまおう」と思ったことがある。
私が社会人になって2年目くらいの頃である。
理由は、至極明瞭。「実話怪談の本に出てくるような、本当に奇異な話に巡り会う確率の異様な低さゆえ」だ。
既にこの頃には坂田くんから『ヒカルケムリノハコ』の話も聞いていたし、前作『~4%の魔石~』第1話収録の『喪服の群れ』の話、今作第17話収録の『まっくろくろ』の話も、目撃者本人から直接語って頂いてネタ帳にストックしてはいた。これらの話は本当に興味深く感じていたし、今もそれは変わらない。
まだ発表はしていないが、今は亡き祖父が語ってくれた『精霊風に取り憑かれた』話や、『飛んでいるたくさんの火の玉の下を潜った』話なども、「機会があれば世に出してやる」と鼻息を荒くして、学生時代の頃からノートに書き留めてはいたのだ。
だが如何せん。私の当時の怪談レパートリーは、本当にこれくらいのものだったのである。
学生時代は、友人らのコミュニティ内での地道な聞き取り調査を行うのみであったが。自動車免許を取ってからは、それなりに機動的な取材活動を行ったりもした。
しかし、それでも。
――とっておきの怪談がある、と言うので訪ねて行ってみれば、
「お婆ちゃんが亡くなった夜に、自室の窓の外でボーッと何かが光ったのを見た。あれはお婆ちゃんの魂が火の玉になって飛んできたに違いない」
「夜中、道を歩いていたら不意に肩を叩かれて、振り返ったけど誰もいなかった。あれは霊の仕業だったに違いない」
「愛犬が死んだ夢を見た次の日、本当に愛犬が死んでしまった。予知夢に違いない!」
なるほど、いずれも とっておきの出来事である。普通に生きている人であれば、経験することすらレアな事象であるだろう。体験者がその時に味わった恐怖、驚き、不思議さは、まっこと想像を超えるものであったに〝違いない〟のだ。
しかし、それが誰にも胸を張って語れる特別な怪談であるか、と問われれば――
もともと何に対しても怠け癖のある私が、それまでに100件近い怪談を蒐集していたという事実だけでも、既に驚愕だったといえる。
身内にバレたら「社会人にもなって、まったく!」と
もう少し見返りが欲しいな。せめて、人生観が変わるような強烈なものでも一話、聞くことが出来たら、もっと張り合いも出るのになぁ。
そう思い思い、「やっぱもう辞めるか」などとぼんやり考えていた矢先。
私は、一度ご自身の体験を拝聴させて頂いた とある方から、一人の女性を紹介された。
名前を
聞けば、当時二十歳だった私よりも5歳ほど年上。落ち着いた服装で、分別のある真面目そうな面持ちの方だ、という印象を持った。
紹介者の方は、「この女性も、凄く異様な体験をしたらしいんだ。聞いてあげてくれないか」と言われる。
「ええ、それは願ったり叶ったりです。で、安野さん。それはどのような話なのですか?」
「あ。はい。それが・・・ その・・・ 私の、体験談なんですけど・・・」
「はい、はい」
「少し、あの、けっこう、ヘンな話で・・・」
「わかりますわかります。皆さんそう仰られます。どうぞリラックスなさって下さい」
「お化けとか幽霊とか、祟りとかは直接出て来なくて、だから、非科学的なことがまったく起こらない話なんですけど、」
「えっ?」
「・・・・・・それでも、お聞きになって頂けますか?」
お化けも幽霊も祟りも出て来ず、非科学的なことがまったく起こらない話が怪談になるのかという疑念が頭を過ぎったが、とにかく相手は目の前にいるのだ。ダメですお帰り下さいなどとは口が裂けても言えない。もう聞いてみるしかない状況なのである。
何やら特別な話らしいので、ホラー小説のネタくらいにはなるかも知れない。まだ若かった私は、(今思えばとても失礼な考え方であるが)そう高をくくっていた。
「とりあえず、お話し下さい。プライバシーは必ず守りますので」
「あ、ありがとうございます。誰かに話したかったけど、誰にも言い出せなくて、ずっとモヤモヤしてたんです。 この話は――」
こうして、私の『怪談観』を根底から覆すほどの奇妙な話は、厳かに幕を開けた。
◎ ◎ ◎ ◎
80年代後半の頃のこと。
安野さんの通っていた小学校には、それはそれは立派な『朝鮮人参』があったという。
厳密に言えば、『寸胴型のガラスの容れ物に入った、朝鮮人参のアルコール漬け標本』だ。それは根別れに根別れを繰り返してまるでタコのような様相を呈し、小さな大根ほどの大きさにもなっていた。
地元の素封家が薬餌用にと高い値を出して購入したものらしいのだが、あまりに大層な人参だったので薬にしてしまうのが惜しくなり、このような観賞用の標本にして毎日眺めながら酒を飲んでいたらしい。その人が亡くなった後、「珍しいものだから」と遺族が学校へ寄付し、以後、『郷土資料室』とプレートのかかった物置部屋へ直し込まれていたのである。
郷土資料室は学校の掃除の時間に児童達によって清掃が行われることになっていたので、多くの子供達がこの巨大な朝鮮人参に親しんでいた。誰もが一度見たら忘れられないようなインパクトがあった、と自身も人参を目にしていた安野さんは言う。
「それが発端だったんです」
安野さんが11歳、小学校5年生だった頃のことだという。
その頃、彼女の通う小学校に〝毎日通い詰めている〟という噂の中年女性が居た。
「おい!今日もまたウチダの女殿様が来たらしいぜ」
「ほんとかよ?もう2回目?3回目?」
「校長先生と一時間くらい話して、怒って帰ってったらしい」
「朝鮮人参を欲しいって言うんだろ?フツーじゃねぇよなぁ」
子供達の噂話に登場するこの『ウチダの女殿様』とは、安野さんの住んでいる町の外れにある秘宝館、『ウチダのお城』の経営者である女主人のことであった。
けばけばしい化粧で顔を固めた、オットセイのような見た目の四十がらみの『女殿様』だったという。
観光地でも何でも無い鄙びた町に的外れのような秘宝館を営んでいるというあたりが既にまともでないような気もするが、実際、あまりまともな話を聞かない人だった。何でも元ホステスで、夜の仕事で貯めたお金を資金として『念願の』秘宝館を開店し、そのまま閑古鳥を鳴かせて5年目という経歴の持ち主であったらしい。
小学校のある町に秘宝館なんか建てて法律的にどうなんですかね、と私が聞くと、安野さんは「そういう常識が通用する方では無かったようだから・・・」と苦笑された。
くだんの女殿様は、学校の『朝鮮人参』にとてもご執着だった、という。
「この人参は地元のお金持ちの方が学校へ寄付したという経緯になっておりますが、それは嘘でございまして、本来わたくしの所有物だったものであります」
「とてもとても貴重な代物であり、手放したことをわたくし自身も後悔しております」
「科学的にもひじょうに価値のあるものであり、東京の大学からも『あの人参を譲ってくれないか』『あの人参があれば、ノーベル賞なのだ』と打診が来ております」
「日本がノーベル賞を取れるように、あの人参はわたくしが大学の方へお渡ししないといけません。さぁ、返して下さい」
――このように、普通でない筋道を並べ立て、押し通そうとされたそうだ。
むろん、そのような無茶苦茶を通すわけにはいかない。校長は彼女の襲来の度に真摯に対応し、やんわりといなすようにして、お帰り頂いていたのである。
さてそんな人が経営する『ウチダのお城』がどのような秘宝館だったのか少し気になるところではあるが、年の離れたお兄さんのいる同級生から安野さんが聞いたところによると、
「××××の形をした石とか流木とかが、小難しい説明文とセットで飾られていて、それらと一緒に人魚とか河童とかの(
と、『お城』に興味本位で入ってみたその子のお兄さんはあきれ顔で語ったらしかった。
万年開店休業状態の秘宝館に業を煮やした変わり者の女主人が、「あそこの学校の人参さえ展示すれば珍し物好きが大挙して押し寄せて来るに違いない」とでも考えたのだろう。学校側には迷惑な話だ・・・ と、誰もが同情混じりに囁いていた。
まったく擦れた子供ではなかった安野さんは、「目的の為なら他人のものでも奪い取ろうとする」大人の気持ちというのが、よく理解出来なかったという。
※ ※ ※ ※
そんな、ある日のことである。
「その時はおそらく、お使いか何かをしていたのだと思います」という。安野さんは商店街をひとり、歩いていた。曜日だけは何故かしっかりと覚えており、土曜日の午後のことであったらしい。
今と違って、多くの買い物客で活気に満ちた週末の商店街。
するといきなり、その一角から甲高い女性の声が聞こえてきた。
「もう二度と来るもんか、こんな店!あたしが大金持ちになったら、吠え面かかせてやるから覚悟しとけ!!」
そういう意味のことを叫びながら、肉屋の親父さんを睨みつけている中年女性。
あ、ウチダの女殿様だ、と安野さんは直ぐに思い当たった。
丸々とオットセイの様に太ったその女性は、某SF鉄道アニメに登場する美女のような、ロシア女性を彷彿とさせる服に身を包んでいた。ただしアニメと違ってその色は抜けるような純白で、「どこでそんな服売ってるのだろう」と流石の安野さんも呆れてしまったそうだ。
「まったくどいつもこいつも。ふん、あたしが贈った人参のおかげで教授がノーベル賞を取ったら、てのひら返したようになるんだろうさ。見ときなさいよ!」
そう言って振り向いた女殿様と、安野さんは向かい合う形になってしまった。
濁った目が、「んん?」と安野さんを見つめた。
「おや、こんにちは」
えぇっ。
ビックリしすぎて、目を見張ったという。
まるで知り合いと出会ったように何気なく安野さんに挨拶した後、ウチダの女殿様は巨体を揺らしながら商店街の雑踏の中に消えていった。
何で、あたしに挨拶してくれるの?あんなおかしな人が?
しばし混乱していた安野さんだが、「どうかしてやがるぜ!」という肉屋の親父さんの不機嫌声で我に返った。
「全品半額にまけろ、だってよ?本当にあの女バカ殿様が!!」
やりどころのない怒りを、彼は店の奥から出てきた奥さんにぶつけていた。
その日の夕食の時間、安野さんはお昼の出来事をお父さんとお母さんに打ち明けた。
あのおばさん、あたしにはキチンと挨拶をしてくれたのよ。まるっきり悪い人じゃないんじゃないかしら、と言った瞬間、
「まぁ昌子!あなた、あんな人から話しかけられたの!」
お母さんが、信じられないといった風に大声を出した。
おいおい、とお父さんが窘める。
「あんな人、は無いよ お母さん。あのおばさんは、一度都会に出てはいるけど、もともとこの町の出の人なんだから」
それとこれとは話は別よ! お母さんは心配そうな顔でプリプリと憤っていたが、穏やかな性格のお父さんは まぁまぁ落ち着きなさい、と苦笑い。
「無闇に人を悪く言うのは良くないだろう。案外子供好きなおばさんかも知れないじゃないか。実際、昌子は挨拶をされたんだしな?」
安野さんの顔を見ながら、お父さんは言った。
コクリ、と頷くとお父さんはにっこり笑う。
「・・・しかし、あの朝鮮人参の持ち主だった、というのは嘘だな。あれはお父さんが子供の頃から既に学校にあったし、お父さんのお父さんも子供の頃にあの人参のアルコール漬けを見た記憶があるそうだ。かなり昔に、地元のお金持ちが学校に寄付したというのが正しい由緒だろう」
じゃあ、やっぱり嘘つきではあるのか。
よくよく考えるにつれ混乱してくる。善悪をキッチリ付けたいタイプの子供だった安野さんの第一感心は、「結局 女殿様は悪人なのかそうでないのか?」それだったのだ。
「はっはっは。まぁ、何回も校長先生と話し合ううちに、そのうち懲りてしまう筈さ。困った人ではあるけど、そんなに懸念することもないよ」
お父さんが断言してくれたので、安野さんも安心したという。
今度挨拶されたら、きちんと返してあげなくちゃ。
そう決心したのだそうだ。
――その機会は、案外直ぐに訪れる。
家族でそんな会話を交わしてから程無くの頃。
安野さんは、友達と一緒に下校しようとしていた途中にバッタリと、ウチダの女殿様に鉢合わせしてしまったのだ。
校門の近く。夕焼けが綺麗なロケーションだったので鮮明に記憶している。
女殿様は、まるで夜の蝶時代に着ていたようなキラキラ光るドレス姿であった。
小学校を訪れるのに まったくそぐわぬ異様な風貌に、安野さんの友達は明らかにビビっていた。安野さんも同様だったが、運の悪いことにまた、目が合ってしまっていた。
「あら、」と女殿様は渇いた風な声をかけてきた。
「よく会うわね。アンタ、安野のトコの子供なんでしょ」
「えっ?! あ、ハイ」
「アンタのお父さんは知ってるわよ。元気?」
「ハイ、元気・・・です」
「ふーん。あれに、こんな娘がねぇ・・・相変わらず、例の帳面は付けてるのかい?」
「は?ちょうめん??」
「アッハハハ、子供に見せるわけないか。ないわよねぇ、ハハハハハハ!!」
しばらく不躾に大笑いした後、女殿様は「いいかい、校長先生に言っておきな。朝鮮人参は絶対に返して貰うってさ」と言い残し、くるりと踵を返して歩き去って行った。
巨体に似合わず、かなりの早足だった。
安野さんと友達は、しばらく呆然と立ち尽くしていたという。
※ ※ ※ ※
お父さんは、「ウチダの女殿様はもともとこの町の人だった」と言っていた。
ならば、少し年下である筈のお父さんのことを知っていたとしても、あまり不思議なことではないのかも知れない。
だが、何だろう。「例の帳面はつけているのかい?」って。もしかして女殿様、お父さんと仲が良かったのかな?
気になる言葉を聞いてしまったせいで、安野さんはしばらく、女殿様とお父さんの仲をいろいろ勘ぐっていたという。小学五年生とはいえ、女の子は男の子よりそういう想像がませているものである。
しかし、考えているばかりでは答えは出ない。かと言って女殿様かお父さんに、両者の関係について直接尋ねてみるわけにもいかない。
いったいどういう意味であんなことを言ったんだろう――そんなことばかりを安野さんが堂々巡りに四六時中考えていた最中、
事態は急展開を見せる。
学校の郷土資料室から、朝鮮人参の標本が忽然と消えた。
あの女殿様、やりやがった!
誰もがそう思ったが、果たして有志の者が果敢に乗り込んで行った際、彼女の住処も兼ねていた『ウチダのお城』は、既に展示物が
文字通りの、もぬけの殻。
当然、女殿様も行方を眩ましてしまったのである。
「事件の数日前から『お城』に大型の車両が何台か立て続けにやって来たんで、何じゃろうかとは思っておったんだが。まさか盗みを働いて夜逃げとは・・・」
近所の老人は、ほとんど感心したように周囲の人々へ そう語ったらしい。
「ここまで悪党だと、逆に清々しくなるわいな」
学校側は、何故か警察に届け出ることもしなかった。
もともと実用性のない観賞用の朝鮮人参である。それを渡すくらいであの異常な女と縁が切れるならば、むしろ万々歳・・・という結論に至ったのであろう。
やっぱりあの女殿様は嘘つきで悪いヤツだったんだな、と安野さんも逆に安心した。
嘘つきだから、いい加減なことも言うのだろう。優しいお父さんが、あんな女と知り合いな筈はない。あの時の言葉も、全部インチキなのだ。そう思うとすごく気持ちが楽になったのである。
自分たちが慣れ親しんだ朝鮮人参が盗まれてしまったのは大きなショックだったが。
これで、あの女は二度とこの町には戻って来れまい。そこのところは、ホッとする。
何処か遠くの町で、また怪しげな秘宝館を開いて 朝鮮人参を見世物にしているであろうことは間違いないだろうけれど――
結局この事件は長く地元で語りぐさとなっていたらしいが、やがて世の常、だんだんと忘れ去られていった。
『ウチダのお城』も、長い間放置された末にお化け屋敷のような外観となってしまったが、不思議と お化けが出るとかの妙な噂も立たず、静かに荒廃を続けていった。
安野さんも地元でスクスクと成長し、小学校を卒業して中学に入り、あっという間に受験を目前に控えた年頃になっていた。
そんな時に、お父さんが倒れた。
※ ※ ※ ※
癌であったという。
大腸に
強い薬は使わなかった。お父さん自身も、死を覚悟していた。
「どうも疲れやすいな、とは思ってたんだけど、まさか末期とはね。ハハハ・・・」
気丈に、お父さんはいつもの穏やかキャラを演じようとしていたという。そんな父親の気遣いに、安野さんは病室で思わず泣いてしまったことが何回もあった。
「昌子、お父さんのことは心配するな。お前は高校受験のことだけを考えていなさい」
それだけは、何度も何度も、口を酸っぱくして言っていた。
お母さんに対しては、「お前にはこれからも苦労をかけるね」「保険に入っていたことがせめてもの不幸中の幸いだ」などと現実的なことをよく語っていたという。
そして、
「俺が死んだら、遺体は子供の頃に書いた日記帳と一緒に燃やしてくれないか」
人生で一番無邪気で楽しかった頃の思い出と共に、向こうへ行きたいんだ、と。
それも再三、お母さんには頼み込んでいたという。
ある、雪の日の晩。
お父さんは、あちらへ旅立たれた。
倒れてから、僅か一月後のことだった。
※ ※ ※ ※
慌ただしく通夜や葬儀も過ぎ去り、お父さんは遺言の通り、子供の頃に書いていたという何冊もの絵日記と共に荼毘に付された。
安野さんは悲しみを振り払うかのように勉強に打ち込み、ちょうど四十九日の次の日に行われた高校入試でも満足の行く結果を上げることが出来た。
志望校に、一発合格。
お母さんと一緒に、手を取り合って喜んだ。
さて、いろんな意味で人生に一区切りを付け、少しホッとした時分の とある晩。
「・・・昌子、ちょっといい?」
安野さんの部屋に、何時になく思い詰めた表情のお母さんが訪ねてきた。
「何か用?」と訊くが、答えない。黙って部屋に入ってきて、娘に向かい合うように正座の姿勢になる。
「勉強の妨げになると思って、あなたには言わなかったことがあるの」
「え?」
「いえ、出来れば一生、黙っておこうと思ってたんだけれど――」
無理なの。どうか聞いて、とお母さんは掠れた声で言った。
どうも様子がおかしいと思った安野さんは、自らも正座を組んで母と対峙した。
「・・・・・・お父さん、絵日記を棺に入れて一緒に火葬して、って言ったでしょ」
「うん。覚えてる」
「絵日記を直した場所は生前に聞いておいたから、お父さんが亡くなった直後、直ぐに探して見つけたの。で、子供の頃に書いたものだろうから別に中身を読んでもプライバシーとかは関係ないだろうと思って・・・・・・」
「読んだの?」
「ええ」
「ふぅん。何て書いてあったの?お父さんてどんな子供だったんだろう?」
「――――」
「・・・お母さん?」
女、とお母さんは呟いた。
裸の女。
長く沈黙した後、安野さんは首を傾げる。
「化け物みたいな女の絵、ばかりだったわ」
※ ※ ※ ※
お母さんが震える声で語ってくれた日記帳の内容は、次の通りである。
まず彼女が一冊の日記帳を手に取り、適当なページをペラリと開いてみると、そこには正に絵心の無い男子小学生が描きました、と言わんばかりの稚拙なタッチで、裸の女性の絵が描かれていた。
ギョッとしたお母さんが、絵の下にある文章欄に目をやってみると、
【○月×日 今日の やつは なかなか良かった】
年相応の可愛い字で、それだけが記されていた。
胸騒ぎに駆られてどんどん他のページも確認してみたが、何処にもどのページにも裸の女、女、女、女ばかり。
しかも普通の裸婦スケッチではなく、漏れなくその頭には角に似た突起が盛り上がっていたという。そしてお臍からは蛇のようなパイプのような節くれ立った奇妙な長いものが伸びており、すべてに共通して肩口か腰のあたりに鳥の羽根が生えていた。
彩色はされていなかったが、
目だけは、赤鉛筆でこれでもかとグリグリに色が付けられていた。
女たちは、すべて「別人」を描いたようだった。
髪の長さが違ったり、ほくろのようなものがあったりする個体が居たことから、それがわかった。
絵も奇っ怪だったが、それ以上に文章が不気味だった。
【今日の やつには 声が なかった】
【トイレで 会った。 一時間 だった】
【なぐったら わらった。 ぼくも わらいました】
【おしっこが とても いいにおいが した】
そして、それら『化け物女図鑑』に混じって、思い出したように日常の記述が入る時があった。
【▽月※日 今日は家ぞくで こう葉を 見にいきました。 木が、とてもきれいな色にそまっていました。 ぼくは、「何ではっぱは 色がかわるのかなぁ」と お父さんに聞きました。 お父さんは わからないと 言いました】
絵も、家族全員がニコニコと描かれ、楽しい紅葉狩りのシーンが良く表現されている。
だが次のページには、また裸の女の絵なのだ。
「たぶん、お父さんが小学校四年生くらいの頃の日記なのよね――」
そこまで言って、お母さんは顔を両手で覆うようにして項垂れた。
あれは何なの、どういうつもりなの―― と しゃくり上げていた。
日記の現物を見ていない安野さんですら、お母さんの告白に わけのわからないショックを受けて ・・・同時に、サーッと血の気が引いていくのを感じたという。
あの、最期まで優しかったお父さんが。
そんな、狂気じみたものを。
子供の頃から――
「・・・お母さん、大丈夫だよ。大丈夫だよ」
とにかくお母さんを慰めねば、と思った安野さんは反射的にそう口にしていた。
何が「大丈夫」なのかは自分でもわからないが、とにかく何度も何度も何度も繰り返し、お母さんの手をギュッと強く、握りしめてやった。
びっくりするほど、冷えていた。
「・・・昌子。前にお父さん、あの女殿様はここらへんの出身だって言ったよね」
「へ??」
「ウチダの女殿様よ!朝鮮人参を盗んで夜逃げした! ・・・あれ、嘘よ。お母さん、前に近所の人に聞いたことがあるの。あの女、完全なよそ者なんだって。この町には5年前に初めて来た筈なんだって!!」
「え?! でも、え? 何でお父さん、そんな嘘つくの?それに女殿様、お父さんのこと知ってたよ?それどころか、あたしがその娘だってことも知ってたんだよ?」
「・・・・・・あの女、『帳面』がどうとかとも言ってたんでしょ・・・」
ハッとした。
そうだった。校門で女殿様に会った時のことも、お父さんやお母さんには言っていたのだった。
確かあの時、お父さんは「あの人とは、子供の頃に道で何回か会って会釈をした記憶はあるけど。帳面云々は意味がわからないな?」と本気で知らない風な様子を見せたのだった。そしてそれきり、話は流れてしまったのだがーー
「も、もしかして」
お母さんは、泣き腫らして真っ赤にした目で、大きく頷く。
「この日記なんじゃないの?」
「・・・・・・・・・・・・」
「何であの女、あの人がこんな気持ち悪い絵日記書いてたこと知ってんの?」
「・・・・・・・・・・・・」
「何でなのっ、何でなの昌子っ!!!」
お母さん、お母さん! ・・・と何度も呼びかけ、安野さんはお母さんを落ち着かせた。
お母さんは、「うううううう」と絞り出すような声で、さめざめと泣き始めた。
「もう終わったことだよ。日記帳は、お父さんと一緒に燃えちゃったんだから」
そう、安野さんが口にした時。
お母さんは、急に泣き止んだ。
と、おもむろに顔を起こし、キッと真っ直ぐ、娘の目を凝視してくる。
「昌子。 一緒じゃないのよ?」
「・・・・・・? どういうこと?」
「あの日記帳は、お母さんが見つけたその日のうちに、庭で燃やしました」
「え」
「お父さんの棺には、まったく別の古いノートを入れてあげたの」
「どうして・・・」
「どうして、ですって?!」
あんなものを、お父さんと一緒に向こうへ行かせたくないじゃない!!
あんなものは、私が燃やさなくちゃいけないじゃない!!
あんなものは、あんなものは!!!
母の顔は、もはや安野さんがよく知る母親のものではなくなっていた。
鬼のような表情。充血して真っ赤に染まった瞳。
きっと父の絵日記に描かれていた女はこんな感じだったのだろうなぁ、と
安野さんは その時、やけに冷静にそう思ったそうだ。
次の日から、お母さんはいつものお母さんだった。
だから一層、「この話はもう してはならないな」と安野さんは思った。
お父さんが亡くなった時期やお盆の頃になると、今でもお母さんは少し、不安定になるという。
◎ ◎ ◎ ◎
「――以上が、私の話、です」
ファミレスにて、安野さんの語りを聞き終えた時。
私は流石に返す言葉もなく、話のアウトラインをメモする為に用意していたペンも、気付けばテーブルの上に置いてしまっていた。
「ありがとうございます」の言葉すら忘れていた。
ものすごい話を聞いてしまった。
でも、何なのだろう。確かに怪奇な要素は絡んでくるものの、直接的な怪奇現象は何一つ起こっていない。怪談と言っていいのだろうか。強いていえば、人の狂気のようなものを強く感じる。異常心理ホラー、 という区切りにしてしまっては話者に失礼だろうか・・・
それにこの時、安野さんは時事系列的に、当時起こったことを次々に列挙するかたちで話を進められた。それは言わば箇条書きで文章を書くようなもので、前後がいまいち繋がらなかったり、話が飛んでいるかのように見えたりで、正直そのあたりに少し、混乱させられた。だが頭の中で話を組み立て直しているうちにリアルな恐怖が浮かび上がり、「やばいな」と本気で思ったのも事実だった。
身体が芯から冷え切るような恐ろしさだった。
聞いてしまって、後悔した。
この話は、禍々しい。
「他人に話すのは初めてです。紹介者の方にも話していません。松岡さんは、お若いのに数多く怪談を蒐集されていると聞きましたので、それなら、と・・・」
私も母と同様、誰にもこの話はしてはならないと思う一方、自分の心の中にずっと押し込めているのは心苦しくなったんです、と。
安野さんは、とても丁寧な口調でそう言われ、オレンジジュースを少し飲まれた。
「あと、知りたいんです。 このような体験をされた方は、他にも居られるのでしょうか?私たち家族だけが、特別だったのでしょうか・・・?」
何とも言えなかった。
類似する話は聞いたことがありません、とだけ伝えた。
そうですか。 安野さんは少し沈んだ声で言った。
※ ※ ※ ※
私はまた、怪談を集めはじめた。
まだこの頃は、実話怪談を本格的に書いてみようとは一切 考えていなかった。ホラー系のライトノベルを書くにあたってリアリティの参考になるだろう、そっちで芽が出たら怪談作家になってもいいかな、というくらいの、現実を舐め腐ったような心構えだったが、
あつめなければならない、とも思い始めていた。
安野さんの語ってくれたような話が、この世の何処かにあるならば。
聞きたい。いや、聞く義務がある。
そんなこんなで紆余曲折、10年近い歳月は流れ、山ほども色とりどりの怪談を集めた頃。
私は、一人のご年輩の紳士と出会う。
今作第18話、『拾った手記』の話者である富市さんである。
彼の語る黒い手帳に関する話は、私の心を強く打った。
そして、何より。
――この話、どうして昔聞いた安野さんの話とリンクする要素が多いんだ??
その点に、私は大きな疑問と興奮を覚えたのだ。
すべてが合致するわけではないが、これほど特殊な構成要素の似通った話など、そうそうあるものではない。
もしかして、もしかすると・・・?
「あの、富市さん。○○県○○町という所に、お心当たりは御座いませんか?」
私は、安野さんから聞いた彼女の昔住んでいた町――『ウチダのお城』がある町だ――の名前を出して、富市さんに質問した。
「○○町?さぁ、存じ上げない」
そうですか、実は・・・ 私は、富市さんと少し似通った体験をされた女性がいる旨を説明し、(むろん、プライバシーには十分に配慮した上で)彼女の語った話を富市さんにもお聞かせした。
富市さんは、たいそう驚いていらっしゃった。
赤い目の女は何処かに実在するのかも知れませんな、と。
青い顔で、ウイスキーの水割りを一杯飲んで、帰って行かれた。
――最初は、異常心理モノという失礼なカテゴリに入れてしまっていた安野さんのお話が、富市さんのお話に『磨かれ』て、ひとつの怪談に仕上がった。
本当に、怪談というものは宝石のようなものなのだ。
私は、ほとんどこれには、感動した。
やはり書き残していかなければならないな、とも、この時 強く思った。
ちなみに。
富市さんとの出会いの後、私は安野さんにほぼ10年振りの連絡のお電話を入れた。
安野さんはあれから一度も電話番号を変えておらず、またアドレス帳もそのまま ご使用されていた為、『真事さん(怪談)』の名義で登録していた私の電話に、直ぐに出て下さった。
私は、「ある男性があなたと似たような経験をされたようです。まったく同じというわけではありませんが、その方の話にも赤い目の女が出てきます。手帳を燃やすくだりも同じです」と、これまでの出来事を抄訳し、
良ければ、会ってみませんか?と誘った。
安野さんはかなり長い間 迷っておられたが、
私の申し出は、ご辞退された。
このことは後日、富市さんにも伝えた。
それはそうでしょうね、と笑って言われた。
私も、同じですよ、と。
安野さんからは、更にその後でカクヨムへの掲載許可のみを頂いた。
安野さんの話だけに限ったことではないが、登場する人名・地名は、すべて架空のものである。ひとつの話としてわかりやすくする為に端折った部分やオミットした部分は多々あるが、付け加えた部分はひとつも無い。
『実話怪談』だ。
安野さんとお母さんは、今でもお父さんの思い出と共に生きている。
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