第12話 精霊飛蝗

 某氏には子供の頃、頑固な夜尿症の癖があった。

 小学校に入ってもおしめが取れず、両親も「このまま治らなかったら修学旅行などはどうするのだろう」と気に病んでいた。

 本人もひどく恥じており、何度かおしめを取ろうと頑張ってはみたが、その度にお漏らしをしてしまうので、もはや「恥ずかしい」を通り越して悔しかったそうだ。


 小学校の中学年くらいに入ると、今度は別の症状が表れ始める。

 ひどく寝ぼけて、夜中に自らの意思無く徘徊をするようになった。いわゆる夢遊病だ。

 お父さんもお母さんも、「何でうちの子だけが」と毎日のように夜中二人で頭を抱え、悲嘆に暮れていたという。



 小学四年生の夏の終わり頃。

 彼は、やけにリアルな夢を見た。

 夢の中で、彼は自宅の駐車場にぽつんと立っている。

 空が抜けるような日本晴れなので、「いい天気だなぁ」と思わず見上げる。

 すると、ヌゥッと巨大な怪獣が現れる。

 怪獣と思ったのは、無闇やたらに大きな精霊飛蝗しょうりょうばっただ。

 家の屋根にドッカリと乗っかるような形で、こちらを見下ろしてくる。

 彼には、「ああ、これは夢なのだなぁ」という変な自覚がある。

 しかし、自覚しているのと精霊飛蝗の見た目の怖さは別である。

 異様な形相でじぃっと見つめられ、彼は「早く目覚めろ、早く目覚めろ」と念じた。

 すると、ガクンと全身が揺れるような感覚が走った。


 彼は目覚めた。

 あまりの恐怖の為か、まだ心臓がドキドキしている。

 呼吸を整えながら時計を見ると、午前3時を少し回ったくらいである。

 ・・・夜中に起きるのなんて久しぶりだなぁと考えながら、もう一度寝直そうとする。

 すると、おかしな音が何処からか聞こえてくるのに気付いた。


 ぴーひょろぴーひょろ ひょろろろろーっ


 お祭りの笛の音か、と瞬時に思ったが――そんなばかな。

 眠気が覚めた。気になった彼は、おそるおそる、廊下に出てみた。

 ぴーひょろぴーひょろという音は、どうも玄関の方から聞こえているようだ。

 彼は何故か真っ先に、「カブトムシは大丈夫だろうか」と思ったそうだ。その頃彼は、雄と雌のカブトムシを大きめな虫かごに入れて飼っており、それを玄関に置いていたのだ。

 歩を進めるに従って確信する。笛の音は、やっぱり玄関から聞こえている。

 彼は、電灯のスイッチに手をかけた。

 相変わらず音は止まないので、それを構わずONにした。


 かちっ。

 パッと明かりがつく。

 ひっ、と声が出た。


 しっかり閉めていた筈の虫かごの蓋が、完全に外れている。

 そして、そのへりを埋め尽くすように、無数の精霊飛蝗が虫かごの中を覗き込んでいた。

 十数匹はいるか、と思う。

 気付くと、叫んでいた。

 ――このへんの記憶は、少し飛んでいると彼は言う。

 追い払ったのかどうしたのか、いつの間にやらあれだけ群がっていた精霊飛蝗は一匹もいなくなっていた。笛の音も止んでいた。

 虫かごの中のカブトムシは動かなくなっていた。

 6本の脚を引きつらせるようにして、仰向けに転がり、天を仰ぐようなかたちで二匹ともが死んでいた。

 かわいそうなのと、恐怖とで、ムチャクチャに彼は叫んだ。

 何事だ、また寝ぼけたか、と家族が集まってきた。

 そして、異様な姿で死んでいるカブトムシと、叫び続ける彼の姿を見て、全員が絶句した。


 ――あとで知ったことだが、彼が大声をあげたのは朝の6時30分頃のことだった。

 時間が、3時間以上、飛んでいたのだ。



 彼に夢遊病の兆候があったのは先に述べた。

 これも、そのひとつの症状のあらわれであったと考えれば、異様な話ではあるが、納得は出来る。

 しかしこの事件を境として、彼のおねしょも、夢遊病も、劇的に完治。すっぱり あらわれなくなったのだという。

 それはもう、翌日から、すっぱりと。


  ※   ※   ※   ※


 喜ばしいですね、と私が言うと、彼は「ようやくみんなと同じラインに立っただけです」と浮かない表情で言った。

 そんなことより、この事件がトラウマとなって昆虫全般が苦手になってしまったそうだ。

「バッタ類を見ると恐怖が、甲虫を見ると悲しさが沸き上がって、もうダメです」

 チョウチョやトンボなども、あまり上ではない、という。

「これって、どういう種類の体験談なんでしょうかね。『怪談』という分類も、果たして正しいものなのでしょうか――」

 ともあれ、聞いて下さってありがとうございます、と

 最後に彼は律儀に深々、頭を下げた。

 お会いしてからお別れまで、一度も笑わなかった怪談提供者は、今のところ彼だけだと私は記憶している。

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