第5話 チケット(パート3)

 長いトンネルのような闇を抜けて眼を開くと、真田は溜池山王のとんかつ屋から会社に向かう通りにいた。

「あーうまかった。噂のとんかつ、行列ができるだけのことはありましたね。」

 澄んだ秋空の下、隣には上機嫌な尾形がいる。

(こんなに遡ったのか・・・。)

 真田の感覚が確かなら、おそらく3週間ほどリバートしたことになる。何やら考え込んでいる真田の顔を見て、尾形が怪訝そうに聞いてくる。

「あれ?真田さん的にはいまいちでした?」

「え・・・あ。いや、美味かったよな。」

 3週間前に口にしたヒレカツ定食の味はすでにおぼろげで、投げやりな回答になった。

(この日は確か、、、そうだ、こうしちゃいられない!)

 この日は、N電機のシステムで出荷処理ができないシステムトラブルが発生する。

「悪いな尾形、先行くぞ。」

 尾形を残して真田はオフィスに駆け出した。


 オフィスに到着した真田は、上気した様子のまま安村の席に近づいていった。だが、まさに安村の肩に手を置こうとするその直前のタイミングで、はっと立ち止まって自分の席へと踵を返した。


(ダメだ。まずは自分のこの姿勢から改めることが大事だ。)


 真田は軽薄なところもある男だが、その一方で、一度深く反省して決めたことは、徹底して守るタイプだった。今、その性格がうまく回りだしている。


 自席で一つ深呼吸をした後、真田は安村あてのチケットを書き始めた。N電機のシステムのトラブルの原因となる仕様不具合を修正するチケットだ。すでに一度原因分析や対応検討を済ませているのだから、安村に指示する内容は明確だった。わずか5分ほどでチケットを安村に発行し終えたとき、N電機の井筒から電話がかかってきた。

「お世話様です、真田さん。実はちょっとご相談がありまして。」

 3週間前と同じく、井筒の声色は和やかだった。

「あぁ、井筒さん。ちょうどよかった、こちらもお電話しようと思ってたんです。」

 真田は先に出荷処理の不具合の話をしようかと思った。人間、まずい話を先に話して楽になりたい気持ちがはたらくものだ。だが、真田の中の営業としての嗅覚がそれを押しとどまらせた。まずは井筒からの”ご要望3件”を丁寧に聞きあげることに徹した。もちろん、手元にはしっかりとメモを取っている。

「どうでしょう、無償でご対応いただくことって、可能でしょうか?」

 下からなで上げるような声の井筒に、真田は答えた。

「井筒さん。実は、こちらもご相談がございまして・・・」

 真田は丁寧に、システムの出荷処理にバグの見落としがあったことを伝えて陳謝した。目下、早急に修正を進めている。本日の御社の出荷処理に間に合うよう進めているが、もし間に合わなかった分は、大変に申し訳ないが手作業でご対応いただきたい。そして最後に、こう付け加えた。

「お詫びを兼ねて、先程のご要望3件も当然無償で対応させていただきますので、何卒御容赦いただけますでしょうか。」

 トラブル発覚の先手を打った形である。それに、井筒からすれば、無償対応の約束も取り付けることができた。最初こそ少し混乱していたが、後半は井筒も落ち着きを取り戻していた。

「わかりました。先にお知らせいただけてよかったです。これから私、商品管理部など関係部署に話を通しておきます。真田さんは、申し訳ないですけど修正をよろしくお願いします。」

 申し訳ないなんてとんでもございません、と言って電話を切った真田の席に、安村がやってきた。

「今の電話、さっきチケットもらった件だよね。急がないとまずい?」

 電話の前に真田が発行したチケットを、安村はすでに目を通していたようだ。

「ヤスさん、すいません。この件、以前に教えてもらっていたのに、僕すっかり忘れちゃってたんです。色々あって、さっきふと思い出して。お忙しいところ申し訳ないですが、緊急対応、可能ですか?」

「うん、大丈夫。さっそく始めるよ。」

 やることがはっきりと決まっていて、それが正しく伝わっていれば、職人の異名を取るベテランプログラマー安村の仕事はこの上なく早い。結局、N電機の出荷時刻16時の10分ほど前に、修正プログラムをシステムに反映することができた。

 真田は早速井筒に電話で報告を入れる。

「真田さん、さすが。ギリギリだけどしっかり間に合いましたね。今出荷処理始めましたけど、バッチリです。こちらも検査不足だったみたいで、なんだか申し訳ないです。本当、助かりましたよ。ありがとうございます。」

 受話器を戻して、真田はふぅーっと息をつく。安村の仕事が捗ったのには、もう一つ理由があった。ついこの前の真田だったら、対応中の安村に何度も「どうですか?」「まだですか?」と彼の集中の邪魔をしてしまっていただろう。けれど今日の真田は、対応の進行は安村に一切を預け、自分はその裏で井筒からの無償対応要望3件のチケットや、その他のプロジェクトのたくさんのチケットを、ひとつひとつ丁寧に書き上げていた。


 たった数時間のことだったが、なんとも濃密な時間だった。リバート前の徹夜のトラブル対応で感じた疲労感とは、まるで別のものだった。真田は、妙に自分の頭が冴え渡っているように感じていた。どうやらそれは安村も同様だったようだ。


 チームのために。少し先の自分のために。それらは結局、すべてお客様のために。この日を境に、真田は”チケット”というメソッドに、情熱的なこだわりを持つことになる。

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