第3話 チケット(パート1)
「あーうまかった。噂のとんかつ、行列ができるだけのことはありましたね。」
そう言う尾形に相槌を打ちながら、真田は昼休みの溜池山王をオフィスに向かって歩いていた。
「強気の値段も納得だな。」
揚げ物の香りの染み込んだ背広を肩にかけながら、真田は晴天の秋空を見上げて言う。
「さて。うまい飯も食った。今日はそんなに忙しくないし、午後はじっくり技術調査でもするかな。」
「あ、もしかしてこないだ言ってた、MySQLとMariaDBの比較調査ですね?」
「そうそれ。時間のある時にやっておかないとな。」
「いやーさすがっす、真田さん!」
そんなやり取りをしながら、二人の姿は小さな雑居ビルへ吸い込まれていった。
オフィスに戻ってきた二人の姿を見て、美女木ありさが電話中の相手に言った。
「ちょうど今戻ってまいりましたので、このままおつなぎ致しますね。」
保留ボタンを押してありさが言う。
「真田さん、N電機の井筒さんからお電話。」
「井筒さん?了解・・・・お電話代わりました、真田です。」
「お世話様です、真田さん。実はちょっとご相談がありまして。」
「昨日納品させていただいたシステムの件ですか?」
「そうなんです。うちの現場の人間が、今になっていくつか要望を出してきて。」
真田の勤める株式会社ランプノートは、受託開発を行うシステムベンダーだ。N電機のようなクライアント企業から依頼を受けて、オーダーメイドのITシステム(以下、システム)を設計開発し、納品している。
「なるほど。まぁ、使ってみないとお気づきにならないこともありますからね。で、どのようなご要望ですか?」
「いや、まぁ大したことではないんですけど、売上検索機能の検索条件を追加してもらいたいって話で。いまさらで本当に申し訳ないんですが、ご対応いただくことは可能でしょうか?」
納品完了後に追加オーダーをするとなると、システムベンダーに追加料金を請求されるのが通例だ。顧客でありながら井筒が低姿勢なのは、どうにか無償で対応してもらいたいからだ。
「ちなみに追加したい検索条件って何です?」
「あ、失礼しました。”顧客の性別”です。」
(顧客の性別か・・・すでにデータベースのテーブルにある項目だし、追加は大した手間じゃないな。)
そう判断した真田は、少し間を置いて井筒に言った。
「わかりました、その件無償で対応いたします。ただ、お日にちだけはくださいね。」
「あ、ありがとうございます!いや、さすがランプノートさん。」
電話を切った真田は、プログラマーの安村に話しかける。
「ヤスさん、ちょっといいですか?」
「え、なに?」
「いや、簡単な話なんですけど、N電機さんの売上管理機能に、検索条件を一つ追加してもらえます?”顧客の性別”。」
「いいけどさ、まさか、今日中じゃないよね?」
「はい、それは大丈夫です。数日はいただきますんで。」
「チケット入れといてよ。」
「え?あ、はい、もちろん。」
チケットとは、システムエンジニアがプログラマーに作業を指示する際、その作業内容を説明する作業伝票だ。チケットを入れる、とはその伝票を作成するということだ。ちなみに伝票と言っても、実際の紙じゃない。Webブラウザで作成できる電子伝票で、作業の進捗状況や質疑をコメントすることができる。作業テーマごとに話が進められるので、情報が整理しやすい。昨今のシステム開発では、合理化の象徴としてよく語られる開発スキーマのひとつだ。ときに人間の限界を越えた生産性を求められるシステム開発業界では、作業効率化、合理化が絶対善となる。人の記憶に頼る口頭指示など論外、という風潮がこの業界の今なのだ。
しかし一方で、真田はこのチケットというものが少し苦手だった。チケットがもたらしてくれる素晴らしさの理屈は、もちろんわかってる。もちろんわかっているのだが、忙しい時にこのチケットをいちいち書くのが純粋に面倒なのだ。
(これくらいの内容、さっきの口頭指示でやってくれればいいのに。)
内心そう思っていた。が、安村は年上だ。真田は渋々チケットを作成することにした。
チケットの件名に”検索条件の追加”という文字を入力し、本文に詳細を記述しようとしたところで、再び井筒から電話があった。
「いやー真田さん。失礼失礼。さきほど、うっかり要望一つしか言ってなかったもんで。無償ご対応をご快諾いただいて舞い上がっちゃってました。」
「あ・・・そういえば、”いくつか要望が”、とおっしゃってましたね。」
「そうなんですよ、実はあと2つほど。」
(おいおい、3つもかよ。面倒な内容じゃないだろうな。)
いつの間にか肚に産み落ちた苛立ちを抑えながら、真田は井筒に尋ねる。
「どんな内容ですか?」
「ほんとうすいません。出荷伝票に、出荷指示担当者を追加してほしいんですよ。出荷指示日の右に隙間があると思うんで、そこに括弧つけて。フォントは小さめでお願いします。あと、売上管理の検索条件で・・・」
「あ、ちょっと待って下さい。メモ取りますんで。」
そんな調子で井筒からヒアリングした追加要望の2件は、よくよく考えてみると大して難しい内容ではなかった。ランプノートのサービスモットー、”四角い技術をうれしい丸に”を考えれば、無償で受けてもいいものかもしれない。ただ、チケットを書く面倒や、実は前々から気になっていた、安村の非協力的な態度などを思うと、真田の気持ちは、まるで胃もたれでもしたかのように重くなってきた。
「うーん。まぁ、この2件で最後ということであれば、無償でご対応してもいいんですけど・・・」
「ありがとうございます、さすがランプノートさん。えーと、・・・けど?」
「あ、はい。今の2件の内容と、さっきの1件について、内容メールで貰ってもいいですか?内容も細かいし、言った言わないになるのも嫌なんで。」
「え?あ・・・はい。わかりました。」
真田は電話を切った後、今度は安村に声をかけなかった。
(どうせ、べつにやってもいいけど、とか、なんで今さら言うの?とか言われるだろうしな。)
その後、ふたたび真田あての電話がかかってきた。
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