駅に滑り込む車窓に糸をひき始めた大粒の雨。

 駅から2分のアパートの部屋に駆け込む頃には、

シャワーの後のように髪がぐっしょり濡れていた。

 せっかく、あのひとが触れた痕なのに。熱いシャワーを浴びなおしながら、ひどくせつない気分になる。

 窓の外の絶え間無い雨音。

 エアコンの効いた部屋の空気。

 やかんからしゅんしゅん沸きあがる、湯気の白い色。

 茜色の手焼きのカップを選んだ。二年前、自分で焼いた、両手にちょうど合う大きさの、手びねり。

あのひとからもらったばかりの茶葉に、熱い湯を注ぎ、ベッドに腰掛けて口にした。

 意識が、グレイの空気の中を、ゆぅるりと泳ぎ始める。かりんの薫りの湯気が頬を優しく撫でる。

 さっき、泣き出しそうな空の下で見送った、浅木の背中が恋しくなる。

 次はいつ会えるのだろう?

 あんなに明るい目を持つひとなのに、何故後ろ姿があんなに寂しいのだろう?

 会うたびに解らなくなる、大人の男の人。

 呼びかけてくる声。何かに触れる手。

仕草のひとつひとつで、あたしの心は、せつなさと幸せの両極端を猛スピードで往復する。

 このままでは、あたしは狂ってしまうかも。

 寒い。肩だけがぎゅうっと締め付けられるようにさむい。

泣きながら立ち上がり、エアコンのスイッチを切る。

声を上げて泣いても、誰も見ていない。誰もいない。誰も見ていてくれない。

 誰か、助けて。誰でもいい。あたしの涙を笑い飛ばして。

他人がいれば、弱みを見せまいと気丈に振舞えるかもしれないのに。


 電話の音で目を覚ますと、外は真っ暗だった。

時計はまだ午後3時半なのに。

「寝てた?」

 睡の明るい声。まるで目の前に突然現れるような、はっきりした声が、

半端な眠りの不快感を薙ぎ払ってしまう。

「わかる?」

「俺、美森のことなら、離れていても

なーんでもわかるんだよね。それに。

・・・お前、泣いてんだろ?」

 思わず胸を押さえる。

いつも、そうだ。彼は絶妙のタイミングで、心の隙に入り込む。

「図星でしょう? そんな気がして来たんだ。じゃ、すぐ行くからさ」

「すぐって、睡、あなた今どこにいるの?」

「駅前の公衆デンワ」

 この嵐の中? 当たり前のように言うのね。

「いい。だって昨日も来てもらったばかりじゃない」

「いーのいーの。気にしない。俺も美森に会うの嬉しいもーんね」

「だめだよ!」

 思わず語気が荒くなる。睡の、本当に驚いたような息の音が聞こえた。

「・・・甘えすぎちゃいけないと思うの、睡に」

「だから、気にするなよって」

「だって・・・だって、あたし、浅木さんのこと考えて泣いてるのよ」

 黙りこむ睡。無言でじっとあたしの次の言葉を待っている。

「不純だよ・・・あたし。汚れてるよ、卑怯だよ、こんなの」

「わかったよ。行かないよ」

 うんざりしたような、ため息混じりの声。

「美森がそう思うんじゃ、しょうがない。お前を汚す手伝いはしたくないもんな。じゃあ」

 素っ気なく切れてしまった受話器を抱いたまま、しばらく動けなかった。電話の前以上に虚しさがひどくなった。

 睡。意地悪だ。余計に人恋しくなってしまった。


奇妙な寒さが戻ってくる。エアコンはとうに切ってあるのに。全身ががたがたと震え出す。

両腕で強く押さえても止まらない。息も苦しくなってくる。

 助けて、助けてよ、睡。

 他の誰でもない、あなたじゃなきゃ、だめなんだ。


 傘を差すことすら思いつかなかった。

 部屋着のキャミソールにジーンズのまま、表に駆け出した。

 あの電話からもう10分は経っている。帰ってしまったに決まっている。

 雨に霞むホームの端っこに、見慣れたグレンチェックの傘。

・・・なんて優しい笑顔であたしを迎えるの?睡。

「来ると思った。今の美森には、絶対俺が必要だってわかってるから」

 土砂降りの雨が吹き込むホームで、ぐしょぬれの子猫のように抱き合った。

暴風雨警報が出ているから、人はまばらだし、雨や傘で隠されはするけど、人目が全く無いわけじゃない。

 でも、そんなことを気にする余裕も、もう無かった。

「風邪ひくよ」

 バカ。こんな状況であたしの心配するとは、あんたってば何てバカ。

「来て。うちに」

 短い前髪が貼りついた額に、額をくっつけて、目を覗き込んだ。

「・・・お願い。睡」

 あたし、もう狂いかけてる、と思った。こんなに我慢したのは初めてだもの。

 何度も大きくうなずいてから、あたしの前髪を指でそっと左右に分け、額に長いキスをくれる。

 睡の唇が、物凄く、熱い。

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