③
駅に滑り込む車窓に糸をひき始めた大粒の雨。
駅から2分のアパートの部屋に駆け込む頃には、
シャワーの後のように髪がぐっしょり濡れていた。
せっかく、あのひとが触れた痕なのに。熱いシャワーを浴びなおしながら、ひどくせつない気分になる。
窓の外の絶え間無い雨音。
エアコンの効いた部屋の空気。
やかんからしゅんしゅん沸きあがる、湯気の白い色。
茜色の手焼きのカップを選んだ。二年前、自分で焼いた、両手にちょうど合う大きさの、手びねり。
あのひとからもらったばかりの茶葉に、熱い湯を注ぎ、ベッドに腰掛けて口にした。
意識が、グレイの空気の中を、ゆぅるりと泳ぎ始める。かりんの薫りの湯気が頬を優しく撫でる。
さっき、泣き出しそうな空の下で見送った、浅木の背中が恋しくなる。
次はいつ会えるのだろう?
あんなに明るい目を持つひとなのに、何故後ろ姿があんなに寂しいのだろう?
会うたびに解らなくなる、大人の男の人。
呼びかけてくる声。何かに触れる手。
仕草のひとつひとつで、あたしの心は、せつなさと幸せの両極端を猛スピードで往復する。
このままでは、あたしは狂ってしまうかも。
寒い。肩だけがぎゅうっと締め付けられるようにさむい。
泣きながら立ち上がり、エアコンのスイッチを切る。
声を上げて泣いても、誰も見ていない。誰もいない。誰も見ていてくれない。
誰か、助けて。誰でもいい。あたしの涙を笑い飛ばして。
他人がいれば、弱みを見せまいと気丈に振舞えるかもしれないのに。
電話の音で目を覚ますと、外は真っ暗だった。
時計はまだ午後3時半なのに。
「寝てた?」
睡の明るい声。まるで目の前に突然現れるような、はっきりした声が、
半端な眠りの不快感を薙ぎ払ってしまう。
「わかる?」
「俺、美森のことなら、離れていても
なーんでもわかるんだよね。それに。
・・・お前、泣いてんだろ?」
思わず胸を押さえる。
いつも、そうだ。彼は絶妙のタイミングで、心の隙に入り込む。
「図星でしょう? そんな気がして来たんだ。じゃ、すぐ行くからさ」
「すぐって、睡、あなた今どこにいるの?」
「駅前の公衆デンワ」
この嵐の中? 当たり前のように言うのね。
「いい。だって昨日も来てもらったばかりじゃない」
「いーのいーの。気にしない。俺も美森に会うの嬉しいもーんね」
「だめだよ!」
思わず語気が荒くなる。睡の、本当に驚いたような息の音が聞こえた。
「・・・甘えすぎちゃいけないと思うの、睡に」
「だから、気にするなよって」
「だって・・・だって、あたし、浅木さんのこと考えて泣いてるのよ」
黙りこむ睡。無言でじっとあたしの次の言葉を待っている。
「不純だよ・・・あたし。汚れてるよ、卑怯だよ、こんなの」
「わかったよ。行かないよ」
うんざりしたような、ため息混じりの声。
「美森がそう思うんじゃ、しょうがない。お前を汚す手伝いはしたくないもんな。じゃあ」
素っ気なく切れてしまった受話器を抱いたまま、しばらく動けなかった。電話の前以上に虚しさがひどくなった。
睡。意地悪だ。余計に人恋しくなってしまった。
奇妙な寒さが戻ってくる。エアコンはとうに切ってあるのに。全身ががたがたと震え出す。
両腕で強く押さえても止まらない。息も苦しくなってくる。
助けて、助けてよ、睡。
他の誰でもない、あなたじゃなきゃ、だめなんだ。
傘を差すことすら思いつかなかった。
部屋着のキャミソールにジーンズのまま、表に駆け出した。
あの電話からもう10分は経っている。帰ってしまったに決まっている。
雨に霞むホームの端っこに、見慣れたグレンチェックの傘。
・・・なんて優しい笑顔であたしを迎えるの?睡。
「来ると思った。今の美森には、絶対俺が必要だってわかってるから」
土砂降りの雨が吹き込むホームで、ぐしょぬれの子猫のように抱き合った。
暴風雨警報が出ているから、人はまばらだし、雨や傘で隠されはするけど、人目が全く無いわけじゃない。
でも、そんなことを気にする余裕も、もう無かった。
「風邪ひくよ」
バカ。こんな状況であたしの心配するとは、あんたってば何てバカ。
「来て。うちに」
短い前髪が貼りついた額に、額をくっつけて、目を覗き込んだ。
「・・・お願い。睡」
あたし、もう狂いかけてる、と思った。こんなに我慢したのは初めてだもの。
何度も大きくうなずいてから、あたしの前髪を指でそっと左右に分け、額に長いキスをくれる。
睡の唇が、物凄く、熱い。
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