②
土曜日。ポプラの並ぶ目抜き通り。
喫茶店の壁にもたれ
約束の相手を待つ。
青空が眩しすぎるので、うつむいて、石畳みに雲が流れていくのをじっと見ていた。
風が強い。爪先を綿雲が5つ通り過ぎたのを数えた時、
「田中さん」
視界に、黒い足先が飛込んで来た。
「こんにちは」
ゆっくりと顔を上げて、長身の彼の顔を視界に捉えた。
出来るだけ丁寧に挨拶の言葉を口にした。
あたしの持っている一番いい笑顔で。
このひとといられる時間を無造作に過ごしたくないから。
「中で待っていればよかったのに」
陽射しよりも眩しい、浅木(あさぎ)氏の笑顔。
「お天気がいいから、お日様に当たらなきゃもったいなくて」
嘘。
さっきのように、光の中であなたに呼ばれたかったのだ。
・・・王子様のキスを待つ、いらくさ姫のように。
店に入ると、窓際の一番奥の席に着く。浅木のお気に入りの指定席。
店の外からも、店内でも、一番目に付きやすい席かも。
このひとは、あたしといることに後ろめたさなど全く感じてはいないのだ。
「何にする?」
「シナモン・ティ」
自分の分のキリマンジャロと一緒に注文し、煙草を取り出す。
ライターのキャップを開ける、キン、という音。
長めの煙草に火を点け、窓の外の人の流れを眺めながら、ゆっくり、くゆらせる。
そんな彼の仕草を、目をビデオカメラにして、じっと見ていた。・・・いかん。このままじゃ、時間の無駄になる。
「何の御用でした?」
「あ、そうそう」
こと。テーブルの上に掌くらいの箱を出す。
「先週の週末、上高地の方へ撮影旅行に行ったんだ。
これ、お土産。
遅くなったけど、なまものじゃないから」
小さなこびんに入った、お茶の葉。
プラス、木製のスプーン、というセット。
…う、可愛い過ぎる。
「かりん味のお茶だって。田中さんは、いろいろ、ヘンなお茶が好きだからなー」
シナモン・スティックでお茶を掻き回す、あたしの手元を見て、笑う。
「どうでした? 上高地は」
(奥様ハ、御一緒デシタカ?)
「うん。なかなかいい写真が撮れた。
大正池に行ったんだけどね。
あそこはね、何ていうか…時間が止まっているんだよね。
霧の中で、樹木が水に浸かったまま、立ち枯れていてね。
…ほとんどモノトーンの世界なんだよね。
岸でぼんやり眺めてると…何だろう…あれは…そう、"終末"ってものを考えてしまう…」
ああ、きっと一人旅。
物寂しげな岸辺。
一人ぼっちでカメラを構えている姿を想像する。
「実際、あの池は常に常に姿を変えている…その時その時にしか出会えない光景がある。
田中さんも、いつか行ってみるといい。絵付けのいいヒントになるんじゃないかな」
「今度、写真見せてください、是非」
浅木は、アマチュアのカメラマンである。
プロの間でも一目置かれている腕で、
専門外のはずの美大の友人でも、その名を知っている人は多い。
高校生の時、あるギャラリーで見た図録の写真が、あたしが陶芸を始めたきっかけだった。
彼の知人のオブジェ作品を撮ったものだったが
背景の選び方、光の使い方に
披写体への深い愛情を感じた。
このひとの目で、自分の作品を撮られてみたいと思ったのだ。
「どう? 学校の方は」
「色彩感覚が、とにかくダメなんです。丁寧なのは誉められるんだけど、人を引き込む迫力とか
遊びが無いんだよって」
「田中さんらしいなぁ」
独り言のように言って、ちょっと微笑む。
「田中さんは彼氏いるの?」
…また唐突に痛い話題を振るっ。このひとはっ。
「……どっちに見えます?」
「んー、悪いけど、そういうことには全然関心無いって感じがするな。"あたしの青春は陶芸オンリーよ"っていう」
「ひっどーいっ! どうせ浅木さんから見れば、あたしはコドモですよぅ」
「田中さんは、まだまだこれから変わっていくよ。いいねえ若いってことは。うらやましいなあ」
一人で頷いてるのを見ていたら、ちょっと憎らしくなるわ。
「そんな、オジサンくさい言い方止めて下さい。まだ31でしょう?」
「もう31だよ。青春はとっくに卒業しちゃったな」
黄昏の欠片も無い明るい目をして、
そんな嘘言わないでよ。あたしの太陽。
「本屋に行くんだけど、一緒に来ませんか?」
誘いに乗って着いていくことにした。ドアのガラス越しに、どんよりとした曇り空が見える。
さっき、あんなに陽が眩しかったのに。
重いドアを押した拍子に、彼の白いシャツが強風をはらんで膨らむ。
・・・ずき。心臓が、止まる。
「どうしたの?」
立ち止まってしまうあたしに気づき、振り向く。
「ゴミ、入っちゃったみたい」
慌てて目をこすって取り繕う。
「あ、だめだよ。そんな強くこすったら。
・・・ほら、目が赤くなる」
こすっているうちに、本当に泣けてきてしまったのだ。
心臓がずきずき踊り続けている。目が霞んでくる。
あのシャツに触れたい。そう感じてしまった一瞬が恥ずかしくて消えてしまいたかった。
この想いは、罪なんだろうか。
書店に入ると、浅木は写真・芸術の書棚の前を、目的の書名を口にしながら歩き回っている。
なのに、全然違うタイトルの本を手にしては、幾つもあたしに薦めてくれる。
さっき、舗道で泣き出してしまったあたしを、気遣ってくれているのか。
高い場所にある本を取ろうと伸ばした腕が、あたしの頭に、ごつんと当たった。
「たっ」
痛さよりも、びっくりして思わず声をあげてしまった。
「ごめん、ごめん」
ぶつかったその箇所の髪を、くしゃっと撫でてくれる、大きな手。
さりげないその動作に、あたしの心臓がまたストップモーションをかける。
あたしのこんな混乱を、このひとは考えてみもしないのだろう。
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