終わらない、夏。
琥珀 燦(こはく あき)
①
「他人のものだから奪いたくなる」とか、
そういうことじゃない。 恋していると気づいた後で、彼は他の誰かのものだと知った、というだけのこと。
その時点で引き返すには、あたしは彼に強く惹かれ過ぎていた。
泥のような熟睡の後の目覚めにはいつも、
当たり前のように睡(すい)が隣で寝息をたてている。
早朝の、湿度の高いひんやりとした部屋の空気。
それがゆっくり降りてきてシーツの中で凝固したかのような、安らかな寝顔。
二人、向き合った姿勢で、
あたしのウェストに右腕をまわしたまま眠り込んでしまうのが、彼の癖。
その腕の適度の重みと、掌のしっとりとした微熱。
あたしにとって彼は“眠り”の精そのもの。
…あたしに安らかな眠りを運んで来る。
あたしをそっと包み込んで眠らせてくれる。
彼は、その名の通り“睡魔”なのかもしれない。慢性の不眠症のあたしの為に、宇宙のどこからか送り込まれた睡魔。
耳にかかる、クセのない髪を指先ですいてやりながら、考えた。
どうして、あたしはこの子を愛していないのだろう。
抱き合って眠る時、いつも、時が止まってしまうかと思うほど幸せなのに。
十も歳上の既婚者への片想いに、何故心を削り続けているのか。
あたしに惜しみ無い優しさを注いでくれる、この美しい子の為ではなく。
陽が高くなったらしい。ビルのかげから突然差し込む光が、睡の顔にサッと注がれる。
それを振り払うように顔を背け、もぞもぞと起き出す。
あたしの寝たふりに気づかず、目をこすりながらジーンズと木綿のシャツを着け、台所へと歩いていく。
コップに水を汲む音が聞こえる。
ごくごく飲み下す姿を、薄目を開けて見た。
右腕を外されたウェストが急に寂しくなった。
「睡。」
水を飲む手を止めて、睡がこちらを向いた。
「起こしちゃった?」
申し訳無さそうに微笑む。答えの代わりに言った。
「お水。あたしにも頂戴。」
乾いた大きめのコップに並々と水を汲んで、
静かに歩いてくる。
ベッドに起き上がったあたしを背中から抱き締め、コップを手に持たせる。
両手であたしの手を包み、あたしの口まで運んでくれる。
流れ込んでくる水の冷たさで、体の機能がゆっくりと動き始める。
掌から、彼はエネルギーをも送り込んでくれているのかも。
裸の背に、睡のザクッとした木綿のシャツの肌触りが心地よい。
「いい天気だね」
両手で包んだ乳房の先端に指先で悪戯しながら、耳元で睡が囁く。
まだ少し鈍い余韻が残っていて、
後頭部をチカリチカリと走り始める。
「週末は、また台風だって」
今年は台風の当たり年とかで九月になって毎週末、
台風の上陸か、その影響で大雨が降る。
「ごめん、睡。いつも」
そういえば、ここずっと週末ごとに、寂しさに耐えきれなくて彼を呼んでしまう。
「何でいつも謝るワケ?俺は、寧ろ得してるんだぜ」
この子は、何もかも知ってる。知っててあたしに付き合ってくれてるんだ。
「ありがとう。」
寝るだけの関係で、ごめん。
入学式以来、やたら言い寄って来た、一つ年下なのに一年先輩。
医者の次男坊で、高卒後すぐこの美大に入学した。
両親の反対を押し切り、短大を中退し、二年間死ぬほどバイトして学費を作り、
睡眠時間を削っての受験勉強でやっと美大入学したあたしには、
彼の入学動機なんてボンボンの道楽程度のもの、程度しか想像出来なかった。
ひとなつこい笑顔と、ちょっと整いすぎた顔のつくりのギャップに、
つい引き込まれそうになることは、あったけど。 彼に興味を持ったきっかけは、パエトーンの彫塑作品だった。
乾燥室の棚に置かれていた、粘土細工。
ギリシャの神アポロンの子が、
父の太陽の馬車を勝手に持ち出し、運転を誤って地面に墜落する。
その直前の姿。
父から与えられるであろう罰への恐怖。
父の偉大さへの畏怖。
青ざめ、わななく少年の表情と、
馬車を包む修羅の炎。
驚愕し、足を高く突き上げ、暴れる馬たち。
五月の新歓コンパで、ふとした会話から、あの作者が彼だと知って
あたしは面食らった。
へらへらと笑っている、目の前の陽気な酔っ払いを見ながら、
あれを作る激しさを、何処に隠しているのよと呆れた。
「俺ね、悲しみとか激情とかいったものを形にしてしまう為に彫刻やってるんだ。
皆が泣いたり怒ったりするのと、俺がこねたり彫ったりするのは同じものだから、普段怒ったり泣いたりする必要はあんまり無いんだ」
あたしも、かなり酔ってしまっていたようだ。
つい、ちょっとカッコいいヤツだなあと思った。
それが、その夜彼と初めて寝たきっかけだった。
そして、その夜から彼と離れられなくなった。
「あたし、他に好きな人、いるんだからね。ずっと片想いだけど、ホントだからね。」
初めて口説かれた時からずっと言い聞かせてるのに。
「大丈夫。俺には美森(みもり)みたいなタイプが一番合ってるし、美森も俺みたいなタイプと、絶対幸せになるんだ。俺たちの将来はそう決まってる。俺、知ってるんだ。」
あたしを抱き締め、いつも自信満々でそう囁く。
…そんな予感がするとか、そうありたいとか、ではなく。
「だから、いつもそばにいてやりたい。
未来のパートナーが苦しんでいる今、付き添ってやれる。
それは、とても嬉しいことなんだよ、俺には。」
そんなこと言ってくれても、
あたしは睡の優しさな報いるためのものを、何も持っていないわ。
「明日、土曜だから講義ないだろ? 映画でも行こうよ」
玄関先で振り向き様に言う睡。
「…ごめん。約束がある」
彼の顔色が一瞬だけ曇った。
「そっか。じゃ、また」
屈託の無い彼の笑顔に、胸が痛くなる。
…あたしは、この子にひどいことをしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます