Ⅰ-17 服部半蔵、ただいま参上!!

 鷹は、鯨丸が吊り橋を上がるのを見守り、そのあと鬼羅の頭上で三回ほど旋回すると、空の彼方へと消えていった。


「あいつは……」


 呆然と空を見上げていると、スルスルと二本の荒縄が下りてきた。


 崖の上から人が顔を覗かせている。人差し指を天に向けて、上がって来いと合図をしていた。


 鬼羅は、一本の縄に由良を結わえた。


「上げろ」と合図をすると、由良の体が浮き出した。


 由良が上がったのを見届け、鬼羅は縄をよじ上った。


 崖に上がると、数人の男が鯨丸と由良を介抱していた。村人と変わらぬ格好をしているが、その身のこなしから、忍び者だと分かった。


 女がひとりいた。


 男たちにてきぱきと指示を出していた。


 小袖に小袴を穿き、脛当を付けている。腰の辺りまである長い黒髪を、首元で結わえている。動くたびに、黒髪が風に靡き、美しい曲線を描いた。涼しげな目元と桜の花びらのような口元が艶やかだ。


 相変わらず男の格好をさせているのは勿体ない、と鬼羅は思った。


「お前、何でこんなところにいやがる?」


 訊くと、女は両肩をきゅっと上げた。


「助けてもらっておいて、いきなりそれか?」


 鯨丸を助けた鷹が舞い降り、女の肩に止まった。


 女は、鷹の咽喉を撫でてやる。


 鷹は愛らしい声で鳴いた。


「この瑠璃丸(るりまる)がいなければ、いまごろ三人とも川の中だぜ」


「やっかましい!」


 女は煩そうな顔をした。


「相変わらず声がでかいな、丹後は」


 鬼羅は頬を痙攣させた。


「丹後って呼ぶな、丹後って」


「じゃあ、三太夫のほうがいいのか?」


「そいつも使うな。俺は鬼羅だ!」


「お前、そんな品のない名前なんて止めろって」


「うるせぇ! 半蔵!」


 女も頬をピクピクとさせる。


「お前、半蔵って云うな。ワシは美広(みひろ)だ!」


「分かったよ、美広さんよ。それで、何でお前さんがここにいるのかって訊いてんだよ」


「たまたま通りがかっただけだ」


 美広はあっさりと云った。


「嘘つけ。こんな小さな村に何の用があるっていうんだ? まさか……」、鬼羅は眉を顰めた、「お前らも宝が狙いか?」


「云っただろ、たまたま通りがかっただけだって。そしたら、お前のでっかいアホ声が聞こえたから助けてやったんだよ。感謝はされても、文句を云われる筋合いはないはずだぜ」


 美広の言うことは正しい。


 だが、怪しいことこの上ない。


「まあ、いい、助けてもらった礼はする」


「これ、借りだから。あとで倍返しな」


「くっ!」


 鬼羅は何か云おうとしたが、声にならなかった。


「それから、お前にはまだ借りがある。ここで会ったのはちょうどいい。あれを返せ!」


 美広が細くて白い手を差し出した。


「あれ? あれって何のことだ?」


「お前、ふざけるなよ。お前が持ち逃げした巻物だ!」


「巻物なら、多羅尾光俊が盗み出しただろう」


「ああ、誰かさんのお陰でな」


 鬼羅は視線を逸らした。


「まあ、その……、何だ、人間、生きてるだけで幸せだってことだ。お陰で、伊賀の里は全滅せずに住んだだろうが。あの巻物を差し出していなかったら、お前さん、今頃ここに立っていられないんだぜ」


「よく言えた義理だな。誰かさんが巻物を偽物に摩り替えたお陰で、こっちは危うく殺されかけたんだぞ」


「だが、生きてる」


「お前は確実に死ぬぞ。殺される。光俊が、今度会ったらぶっ殺すって云ってた」


 鬼羅は、光俊の鈍く光る隻眼を思い出し、ぶるっと胴震いした。


「兎も角、巻物を渡せ」


 鬼羅は両手を広げ、持ってないという仕草をした。


「ここにはない」


「はぁ? どこにやった?」


 鬼羅は、自分の腹をポンポンと叩いた。


「売った。その金で美味い物を食い、美味い酒を飲んだ」


「それなら、その腹掻っ捌いてやろうか」


 美広が腰の物に手をかける。


「おいおい、待て待て」


 鬼羅は後ずさりした。


「ワシに戯言が通じると思うたか? お前の行動などお見通しだ。お前が巻物を売るはずがない。巻物の謎を解けば、莫大な宝が手に入ると云われているからな。だが、その様子だと、まだ謎は解けてないようだな」


 鬼羅は、頬をピクリと痙攣させた。


「お前の頭で解けるのか? だいたい、お前、漢字も読めないだろう。むかしから、読み書きが苦手だったよな」


「あのな、漢字ぐらい読めるわ!」


「おっ、少しは成長したか。だが、お前が持っていても所詮は宝の持ち腐れ、猫に小判だ。ほら、渡せ」


「酷い云われようだな。だが、本当に持ってないって」


「ウソつけ、お前にとっては、命と同じぐらい大切なもののはずだ。肌身離さず持ち歩いているだろう。お前、むかしからそうだったよな、大事なものは着物に縫い付けて持ち歩く癖があったが……」


 美広は、鬼羅の頭から足の先まで舐めるように見た。


 鬼羅は、視線を逸らして惚けてみせた。


「まあいい、今日の借りの分とあわせて、そのうちゆっくりと返してもらうからな」

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