Ⅰ-1 鬼の登場
――天正十(1582)年夏
男は、渋紙色の傘を差していた。
雨は降っていない。
曇っている。
日差し避けの傘でもなさそうだ。
おかしな男だ。
「おいおい、こんな話は聞いてねぇぞ」
と、先ほどからぼやいている。
切り立った崖の先端に立ち、右手で角張った顎を摩りながら、眼下の状況をじっと眺めていた。
上背のある、体格の良い男だ。ギョロリとした目元と大きな鼻翼、ぎゅっと下がった口角は、まるで仁王のようだ。烏帽子をかぶり、短い袴をはき、脛巾を巻いている。背中には櫃を背負い、柄の長い傘を差していた。
男は、鬼羅(きら)。
行商人の格好をしているが、これでも忍び者である。伊賀三上忍のひとり、百地三太夫(ももち・さんだゆう) ―― 丹波(たんば)は、彼の祖父だ。
名門百地家の長兄だが、いまは訳あって家を離れて、放浪の身。
家を捨てて初めて分かった。
人間、金がないと生きてはいけない。
百地の名を出せば、仕事も金も集まりやすい。
だが、その名は二度と使わぬと決めた。
俺は、鬼羅だ!
だが、無名の男に仕事や金が集まるほど、世の中甘くはない。
初めは、俺がこんなことできるかと、仕事の選り好みをしていた。
忍びを捨てたのに、伊賀忍の誇りが心の奥底にあった。
が、そんな誇りは、ぐるぐると鳴く腹の足しにはならない。
忍びのくだらない誇りで飯が食えるか!
仕事なんて選んでいられない。
金になる仕事があれば、どこにでも出向。
彼は、古びた誇りを払い落し、黄金色に輝く信条を身に纏った。
今回も金になりそうなので来てみたが………………
「どうやって侵入したものか?」
眼下には、小さな村があった。
平家落人の隠れ里といわれるだけあって、四方を山で囲まれている。山の中腹まで所狭しと田畑が広がる。その間を縫うようにして農家が点在していた。
山の中腹に、明らかに周囲と趣を異にする屋敷がある。神社のように左右対称の屋敷は、村の中で一番大きく、他の屋敷を見下ろすように佇んでいる。
そこに、今回の仕事の依頼主がいるはずだ。
依頼の趣旨は、荷物を運んで貰いたいとのこと。
忍び者の鬼羅には、実に簡単な仕事だ。
しかも報酬がいい。
今回は楽な仕事だと見込んでいた。
だが、どうやらそれは甘い見通しだったようだ。
まさか、村が侍たちに襲われていようとは。
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