下降傾向



小松栞

 雨の降った後の世界は美しい。

 そんな言葉をどこかで聞いた気がした。

 だけど、やっぱりそれは誰かの言葉でしかなくて、私のものにはなってくれない。

 テレビをつけると朝の情報番組が始まっていた。

 今日は雨が降らないとお姉さんが嬉しそうに言っている。

 少し残念だ。

 固まった関節をボキボキと鳴らしながら、朝日が漏れるカーテンに触れる。

 カーテンを開けると梅雨だとは思えない晴天が広がっていた。

 そして私は思う。

 きっと、気が付かないうちに夏になってしまうのだろうと。

 なんだか、この湿気った空気も少し愛おしく感じられた。

 悪くない。

 目を覚まそうと、珈琲メーカーでブラックを淹れると、珈琲のいい香りが部屋に充満した。

 珈琲をカップに移して、ソファーに腰掛ける。

 贅沢な朝だ。寝坊しない朝とはなんて素晴らしいんだろう。

 淹れたての珈琲を口に含む。

「熱っ!」

 予想以上の温度を保っていた珈琲は、私の口内を火傷させるには充分だった。

 珈琲が津波のように高く舞い上がり、白いワイシャツにダイブする。純白がみるみるうちに黒く染まっていく。

 下ろしたてのシャツだったのに、勘弁して欲しい。 早起きしたせいだろうか、頭が少しぼうっとしていた。いつもならこんな事は無いのに。

 昨日、雨の中傘もささず歩いたから、もしかしたら風邪をひいたのかもしれない。

 そう言えば、傘に入れてくれた彼女は大丈夫だろうか。右肩が随分濡れていた気がする。

 でも、もう私は彼女の名前が思い出せない。

 時計を見ると既に家を出なければ行けない時間になっていた。

 正直休みたいが、いま休むわけには行かない。

 わたしは汚れたワイシャツを脱ぎ、ベランダに干してあった白いブラウスに着替えた。



 東京駅から少し歩いたところにわたしの職場がある。

 「ビルのジャングル」と陳腐な表現をしたくなるような場所にかつての私は憧れていた。

 今ではもう、その感情も思い出せないのだけれど。

 自動ドアを抜け、エレベーターに乗り込んだ。箱詰めにされた何十かの人体がパーソナルスペースを優に超えて密着する。満員電車のような息苦しさを覚え私は辟易した。

 20階に着く頃には酷い疲労と倦怠感が襲ってくる。これはいつもの事だ。

 オフィスの入口にはカードリーダーというものがあり、社員証が無ければ中には入れないのだが、わたしはこれをする時に妙な優越感を覚える。

 その正体は多分、とてつもなく無意味なものだろう。それでも、私はこの瞬間が好きだ。

 ゆっくりとカードリーダーに社員証をかざし、オフィスが私を受け入れる。

 オフィスに入ると、遠野がわたしを見つけて近寄ってきた。

「小松、今日は俺と外周りだから」

 それだけ言うとすたすたと自分のデスクに戻ってしまう。

 わたしは溜息を呑み込んだ。





一条 陽花

「あのっ」

 と、声に出しかけて止めた。

 気づいてないのか、わざと無視しているのか。後者の方がまだいい。

 社員証をかざし、オフィスに入ってしまった。


 小松さんとは昨日初めて話した。

 雨の中、彼女は傘もささずに一人歩いていた。

 だから、思わず声を掛けてしまったのだ。

「小松さんどうしたんですか?」と。

 雨のシャワーを浴びた彼女は警戒したような目で私を見つめた。最初は、いきなり話しかけたから驚いただけなのかと思ったが、想定外の事に小松さんは私の事を知らなかった。受付嬢である私を知らないとは、小松栞とは相当人間に興味が無いのだろう。

 そう思っていた。

 でも、遠野の話題に移ると彼女の表情が硬くなった。

 初めは遠野のことが好きなのかと思ったが、自嘲気味な笑顔がそれを否定していた。

 なんだかその笑顔が切なくて、私はわたしを守っていた傘を小松さんに差し出した。

 私の全身が雨に濡れていく。

 そして彼女をまっすぐに見つめた。

 暗くても、薄茶色に透き通ったその瞳は美しく、酷く私の心を揺さぶった。

 あの感覚は恋に似ている。


 昨日の夜からずっと小松栞が頭から離れない。熱がある時のように、頭がぼうっとする。けれど、なぜか視界は鮮明なので、心と体が別離したような奇妙な感覚だ。

「一条さん」

 顔を上げると遠野がこちらを見下ろしていた。

「どうしました?」

「今夜は空いてる?」

「ええっと...」

「なに?今日も予定あるの?」

「すみません」

 愛想笑いを浮かべ、今日も私は遠野の誘いを断る。

「美味しいお店見つけたからさ、一条さんと行きたいなぁって思ってたんだけど...残念だな」

「私も残念です」

 私が、わざとらしく眉を下げて困ったような顔をすると遠野は満足したのか、また誘うねと言って去っていた。

 はぁー、とため息が漏れそうになる。

 どうして彼はこんなに執拗いのだろう。

 今月に入って食事に誘われるのは三回目だ、ずっと断っているのに。こう何度も誘われるとさすがに断りにくくなる。

 はっきりと断ってしまえばいいのだが、その理由を私は持ち合わせていなかった。

 別に遠野のことは嫌いではない、けれど特別に好きなわけでもない。だから、食事に行ってみてから彼を好きになっていくのも有りなのだが、どうも彼を恋愛対象として好きになれる気がしなかった。

 ああいう仕事が出来て、コミュニケーション能力が高く顔がいい男は大体女癖が悪い。

 私はどちらかと言うと不器用で、傷つきやすく、他人の痛みにも敏感な人に惹かれる。



小松栞

 タバコ休憩に出た遠野から、もうビルの外にいるから荷物をもって来てと会社用の携帯にメールが届いた。

 最初の頃は遠野のこういう自分勝手なところにイラついたりもしたが、こう何度も経験すると私にも抗体のようなものが出来た。

 携帯を鞄にしまい、ホワイトボードに遠野、小松外まわりと記入する。

 得意先に持っていく荷物を両手に抱えてオフィスを出た。

 洋服屋を何軒もハシゴしたかのような紙袋を両手に持っている私を見かねてか、受付の女性がエレベーターを呼んでくれた。

「ありがとうございます」

 私がそう言うと彼女は頬を少し紅くして

「いいえ」と言った。

 その声に、あれ?と思う。

 どこかで聞いたような。顔も見覚えがあるような、無いような。

 エレベーターが到着して私はいそいそと乗り込んだ。

 その瞬間、私は彼女のことを思い出した。

「あの、昨日の」

 言葉は最後まで言い終わる前に扉に遮られた。

 エレベーターが下に降りるにつれて私の心も下降を期した。

 昨日の今日の出来事なのに、ここまで記憶がすっ飛んでいるとは思わなかった。私は相当疲れているらしい。

 彼女が受付嬢ということもすっかり忘れていたのだ。昨日のお礼も言っていなければ、朝の挨拶すらしいなかったことを思い出して後悔した。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

晴と雨 香月 詠凪 @SORA111

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ