晴と雨

香月 詠凪

一章 梅雨

雨音



 東京駅の改札を出ると、曇天どんてんの雲が青空を覆い隠していた。

 隣に立っていた黒いスーツを着た男が、黒い鞄から黒い折りたたみ傘を取り出した。

 バンッと音を立てて黒い傘が雨から彼を守りだす。

 傘をさして歩く人。

 その肩には小さな水溜りができている。

 わたしはそんな彼らを横目で見ながら小さく笑う。

 空を見上げると雨脚は更に強くなっているように思える。

 時刻は20時。

 この後の予定は、ない。

 新卒のお祝いに親から買って貰った紺色のスーツは少しくたびれ始めている。

 だから、もういいや。

 わたしは8センチのヒールを雨音に負けないように鳴らす。

 完璧に作られた化粧がドロドロと崩れていく。

 その中で赤い口紅だけが主張を強めていった。

 鞄には水色の折りたたみ傘が入っている。

 今朝、天気予報のお姉さんが今夜の降水確率は80%と言っていたので律儀に時間の無い中、傘を鞄に突っ込んだのだ。

 余裕のない自分の姿を思い出して溜息に近い笑いが漏れる。

 朝は本当にだめだ。余裕が無い。

 そして余裕の無いまま仕事に向かうといい事がない。


「このミス何回目だ?」

 すみません、と謝った。

 上司は飽きれたようにわたしの作った書類をゴミ箱に捨てる。

「もういい、遠野とおのと外回り行ってこい」

 そう言うと上司は再びノートパソコンに視線を落とした。

 遠野とは仕事のできる同い年の同期だ。彼は甘いマスクから放たれる笑顔で社内でも人気がある。その笑顔にやられた女性社員は数しれない。


 雨を吸ったパンプスがズッシリと重くなっていた。街灯は少ない。

 今日の夕食どうしよう...。

 冷蔵庫には確か卵しかないはず。

 コンビニにでも寄って帰ろうかと思ったが今、自分はずぶ濡れだ。

 あぁ、もういいや。

 コンビニを通り過ぎる。

小松こまつさん?」

 コンビニ袋を持ち透明のビニール傘をさした、ショートウェーブの髪の女が話しかけてきた。どこかで見たことがある気がした。

 でも、思い出せない。

 誰だろう?

「あぁ!やっぱり小松さん。どうしたんですかこんな雨の中傘もささず」

 そう言いながら傘を差し出してくる。

 わたしの体を覆った傘が、自然のスピーカーとなり音を支配した。

 美しいと思った。

 傘から流れ出す音楽を。

 疲れきって荒んでいた心が潤い始めた気がした。

 わたしって単純だ。

「あっ、もしかして私のこと分かりませんか?そうですよね、全然話したことないですもんね」

「すみません、あまり人の顔覚えられなくて」

 やっとの思いで声を絞り出す。雨音に負けそうな声量だった。

「受付の一条陽花いちじょうはるかです。営業部の小松栞こまつしおりさんですよね?」

「そうです。よく私なんか覚えてましたね」

「遠野さんとよく二人でいるのを見かけたので」

 そうか、この人もなのか。

 瞬間、心に冷たい風が吹く。

「遠野さんは仕事が出来るので、ダメな私とよく組まされるんですよ」

 少しの自嘲気味に笑い下を向いた。

 最近、こういう事がよくある。

 わたしは仕事ができる遠野と組むことが多い。そのせいで自分が女性社員からよく思われていないことも知っている。

 本当に勘弁して欲しい。

 わたしと彼は何も無いのだから。

「遠野さんは仕事が出来すぎるんですよ。小松さんがダメなわけではないと思いますよ」

 傘を差しだされ、わたしは一条陽花に見つめられる。

予想外の反応に驚く。大抵、わたしに遠野の話題を出す人間には悪意や嫉妬がある。

でも一条陽花にはそれが感じられなかった。

 そしてなぜか、その真っ直ぐな瞳にどきどきした。

 気まずさと、なんと答えたらいいかわからなくて下を向く。

「ありがとうございます」

 そう言うと、陽花が肩の当たる距離まで近づいてきた。

「家、どこですか?送ります」

 予想外の申し出に困惑する。

「いいですいいです、もう直ぐそこなので」

「じゃあ、この傘使って下さい。風邪ひきますよ」

「いえ、本当にいいです。もうこれ以上濡れようがないので、傘があっても無くても同じですし」

 丁寧に断るが陽花は引かない。

「じゃあ一緒に帰りましょう」

 有無も言わさぬ強い意志が感じられた。

 小さく頷くと陽花は歩き出した。

 その足音に誘われるようにわたしも歩き出す。

「一条さんの家ってここからどれ位ですか?」

「5分くらいです。小松さんは?」

「わたしもです」

 隣を歩く陽花の体温が伝わってくる。

雨音は少し、前よりやさしい音楽を奏でていた。

 この雨は、もう直ぐやむかもしれない。

そんな予感がした。






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