余命三年半の彼女
雪白 瑚葉
余命三年半の彼女
「おはよう、よく眠れた?」
日曜日は彼女のこの一言で始まる。
僕は決まって、ああよく眠れた、そう言葉を返す。
いつもの日曜日。そして、いつもの寝癖。
「じゃあ、早く着替えちゃって。着替えてる間に台所を借りてごはん作っちゃうから」
彼女はそう言うと、僕の部屋を出て一階の台所へ向かう。
僕はその足音を聞きながら大きく伸びをする。それから、まだ寝ていたいと駄々をこねる瞼をこする……要求は決まって却下される。ぼやけた視界が次第に輪郭をはっきりさせていき、程なくして世界はその形を明らかにする。
彼女……幼なじみの篠塚 沙奈は毎週日曜日の朝、僕を起こしにやってくる。
「今日は制服じゃないんだ」
沙奈はフライパンを丁寧にあやしながら、振り返ってそう言った。
もう夏休みだから、そう答える。
「そっか…もうそんな季節だよね」
沙奈に季節の感覚は薄い。
「はい、お待たせ。お味噌汁はインスタントで。そっちの方がおいしいでしょ?」
テーブルに用意されたコップに冷たい麦茶を注いでいると、沙奈はできたてのスクランブルエッグとよく焼いたベーコンを盛りつけたお皿を差し出して言う。
沙奈は、僕の好物がスクランブルエッグだと思っているのだろう。昔、彼女が作った出来損ないの目玉焼きを大好物だ、と言ったことを彼女はきっと覚えている。
「どう?おいしい?」
沙奈は決まってこう聞くが、僕はいつも同じ答えを返す。母さんに言うような評論家染みたことは言わない。ただ、おいしい、そう彼女の質問に答える。
彼女が毎週日曜日に作る同じ朝食。それを僕はありがたく思う。
沙奈は僕が食べ終わるのを待つ。その間、話をすることもあるし、しないこともある。沙奈も、僕がまだ寝ぼけているのはわかっているから大事な話はしない。
いつもと同じ日曜日の朝。二人きりの大切な時間。
僕が食事を終え、食器を流しに下げると沙奈は待ってましたとばかりに満面の笑みを浮かべて言う。
「じゃ、行こうか。おばさん、行ってきます!」
沙奈の言葉に、居間の母さんが上半身だけこちらに向けて笑顔で手を振る。
僕は落ち着く間もなく、引きずられるように沙奈に連れられて家の外に飛び出す。
「まだ蝉は鳴いてないね」
まだ時間が早いせいもあるのだろう。夏休みに入ったというのに蝉の鳴き声はしない。
きっと来週の日曜はうるさくなっている、そんなことを言うと
「はは、そうかもね」
沙奈は笑いながら答えた。
通学路なのに学生の姿はない。
夏休みの、日曜日の朝。
僕と沙奈は、何組もの犬の散歩を追い越しながら学校へ向かう。
「もう、高校二年だよね」
沙奈の言う通り、僕は高校二年になる。
夏休みが明け、秋になれば修学旅行だ。修学旅行が終われば、本格的な受験勉強を始めなければならない。
「へえ、修学旅行はどこに行くの?」
京都。
「いいな、私も行きたかったな」
小学生、中学生の時と同じ。その時は沙奈も一緒だった。
「クラスとか、班が違ったけどね」
そういえば、そうだ。沙奈と一緒に京都を回ったことはなかった。
小学生の時はどこを回ったか、中学生の時はどこを回ったか、そんなとりとめもない話をしながら僕と沙奈は歩く。
学校が近づくにつれて沙奈の口数は減っていき、部活の朝練、体育会系の声が聞こえるころには、彼女はすっかり黙り込んでしまう。
学校に着く。
沙奈は寂しそうな顔をして、僕がそれに気が付くと笑顔を作って見せる。
僕が通う、学校。
彼女が通うはずだった、学校。
学校に到着すれば、二人の朝は終わる。
────
彼女、篠塚 沙奈は中学三年の時、医者から余命半年を宣告された。
そして、本来であれば高校の入学を待たずに彼女は亡くなるはずだった。
今、それから二年以上の時が経つ。
でも、彼女はここにいる。
余命半年。約180日。
沙奈は神様と話し、相談して、残された余命を一週間に一日だけ消費することに決めたのだと言う。
だから中学校の修学旅行を最後に、彼女は毎週日曜日、週に一日だけ、天国から帰ってくる。
そんな生活をかれこれ今まで続けてきている。
僕は、その貴重な時間を沙奈と一緒に過ごしているのだ。
────
「行きたかったな、修学旅行」
日曜日にだけ天国から帰ってくる沙奈は学校に通っていない。だから、当然彼女が修学旅行に行くことはない。
沙奈はしばらく校門から校舎を眺め、それから何かを思いついた顔をして言った。
「二人で行こうか、京都」
いつ?いや、聞く必要もなかった。
「もちろん、今から!」
沙奈に残された時間は多くない。彼女は思い立ったらすぐ行動を起こす。
言うが早いか彼女は鞄からスマートフォンを取り出して電話をかける。連絡先は二つ、まず彼女の母親、次いで僕の母さんへ。
「夏休みだから、いいよね?」
僕の了承を得るのは決まって後回し、最後だ。もっとも、沙奈の気まぐれのわがままにはすっかり慣れている。彼女もわがままを言うのは慣れたもの、僕の返答を聞く前に手を引いて歩き出す。速足で最寄りの駅へ。一分でも、一秒でも、時間を惜しむように。
「私は窓側。海が見える方がいいな」
新幹線の券売機で沙奈が言う。券売機の操作は僕任せ。新幹線の経路については詳しいわけじゃないけど、イメージ的には新幹線で景色を楽しむ時間はほんのわずかだろう。そう思いながら、口には出さない。僕は彼女のために進行方向に向かって左側の窓側の席を探す。
……新幹線の切符代は結構高い。夏休みの序盤から手痛い出費になりそうだ。そんな顔をしていたのだろう、沙奈は笑いながら言う。
「大変だね。私は片道分だけでいいから気が楽だけど」
その沙奈の言葉で、気がつく。彼女が日帰りのつもりではなかったということに。薄くなった財布が宿泊費の分、更に薄くなったように見えた。
新幹線。
もう浜松あたりを通り過ぎるころだろうか。
左手に繋がれた沙奈越しに見る車窓は海が見えていた。
窓側の席を希望していた沙奈は、外に見える海にはしゃぐでもなく小さく寝息を立てて軽くこちらにもたれかかっている。
今日も朝早くに天国から帰ってきたんだろう。僕は彼女の作ったスクランブルエッグを思い出し、目的地の京都で食べることになるであろう昼食を思った。
沙奈が好きな洋食を選ぶか、それとも京都の雰囲気に合わせて和食を選ぶか、彼女がどっちを言いだしても良いように僕は手持無沙汰の右手の指を忙しく動かしてスマートフォンの上に滑らせる。
お店を吟味するのにそう時間はかからない。程なく僕は、ひたすら沙奈と車窓とを順番に見る時間を過ごすことになった。彼女の存在を隣に確認できる。それは僕にとって幸せな時間に他ならない。
「最近は食欲がないんだ。夏バテ、かな」
沙奈は少し儚げな笑顔でそう言った。昼食は僕に合わせると言う。
僕は、あらかじめ調べておいた和食のお店を挙げ、彼女の了承を得た。和食の方が、沙奈の体にかかる負担は少ないだろうから。
「到着早々にたくさん歩いちゃったね」
結局、僕たちは昼食を摂ることはできなかった。
僕が慣れない駅ビルで迷ってしまったからだ。
大きな誤算はあったけれど、沙奈は特段機嫌を悪くした風ではない。
目に付いた喫茶店に入って沙奈は足の先まで大きく伸びをしている。
時計はもう昼を回っている。どこに行くか、この喫茶店で作戦を立てる必要があった。
僕の勧めた市街中心部の健康祈願、病気平癒のご利益がある寺社は全て沙奈に却下された。彼女は今以上の幸せを望んではいない。それは、僕も知っていた。
「違う違う。私が行きたいのは、こっち」
市街の観光地ならこの時間でもたくさんの場所を回ることができる。ただ、沙奈が選んだ場所は郊外の神社。周辺に他のスポットもあるけれど、郊外に出るには時間がかかるから多くの場所を見て回ることはできない。
「それでもいいの、そこに行きたいんだから」
沙奈のその一言で、僕は納得する。それを確認した彼女はもう席を立っていて、僕も彼女に続いて、僕も食べかけを口に詰め込んで席を立つ。
沙奈の選んだ神社は中心地から遠く、交通機関を乗り継いで到着する頃には日が傾きかけていた。
郊外の山地にあるその神社は緑に囲まれ夏でも涼しい。しかし、ところどころに弾けるように降り注ぐ蝉の鳴き声が市街地以上に夏の訪れを醸していた。ようやく夏らしさを実感したのか、手でうちわを作って扇ぐ彼女はにこにこしている。
「縁結びの神様なんだって」
そう僕に説明した沙奈は、自分の財布には無かった五円玉を放り投げてから熱心にお祈りをしている。つられるように、僕も目を閉じてひとつ、願い事をする。
僕は沙奈に問いかける。何をそんなに熱心にお願い事をしたのか、と。
「良い出会いがありますように、って」
沙奈は僕をからかうように答えた。きっと、からかい半分…からかう気持ちは半分。もう半分は、自分が居なくなっても寂しくないように、神様に良い出会いをお願いしておいた…彼女はそんな顔をしていた。僕はそんなことを望んではいないのに、彼女はそういうおせっかいを焼く。
僕もからかい半分で沙奈に言う。
わざわざ神社でお祈りしなくても、天国で直接神様にお願いすればいいんじゃないか、と。
この質問は、沙奈を少し不機嫌にさせた。
「気持ちがわかってないなぁ。一緒にお参りするのに意味があるのに」
限られた少ない時間で僕と一緒に居て楽しいのか、そう思ったことは何度もある。でも、沙奈は決まって、一緒に居るから楽しいと言う。
そして、決まって沙奈は天国のことを話さない。
一週間のうち六日間を向こうで過ごす彼女は、こちらで天国のことを話すのは禁止されているのだと言う。
だから、僕も、彼女の家族も天国のことを聞かない。ただ、与えられた一週間に一日の時間を僕たちも、そして彼女も大切に思っている。そのことが嬉しくもあり、そして、不安でもある。
彼女の幸福は、あっちにはないんじゃないか。少なくとも僕は、そんな考えが頭をかすめることがある。
「ごめん」
僕には沙奈の気持ちがわからない。
彼女も、僕の気持ち──僕が何を願ったかはわからない。僕はそれを歯がゆく思う。
暗くなり始めた道。僕は沙奈の手を握って、今、この場所に彼女が居ることを確認する。彼女の強く握り返す手が存在を証明する。わからないから、その存在に縋ろうとする。彼女が幸せであるように、強く想いながら。
宿泊料金は二人分。
ただ、翌朝チェックアウトする時は僕一人だけになる。
朝には沙奈は天国に帰ってしまっているのだから。
部屋に落ち着くと、沙奈は両親へ旅の報告をする。狭いビジネスホテルの二人部屋で、彼女が僕の話をするたびに、少し気恥ずかしくなる。
彼女は長く続くと思われた旅の報告を短く済ませてから、また来週ね、そう切り上げた。
また来週の日曜日、会えるかもしれないし、会えないかもしれない。
会えなければ、多分その日が最後になる。
最後の日は沙奈自身もわからないらしい。
だから、その日は突然やってきて、お別れを言う猶予も与えられない。
別れの時間が近づくにつれて僕たちの口数は決まって減っていく。
話したいことはたくさんあるのに。
ただ、その方が時間がゆっくり流れるから。
少しでもその時間を長く一緒に過ごしたいから。
僕たちは静かに二人だけの時間をかみしめる。
月曜の朝。
目覚めは最悪だった。
僕は前日とは正反対のモーニングコールの暴力にホテルのベッドからとび起きた。
モーニングコールの設定は最大音量に変えられていた。
疲れていた僕はいつの間にか眠ってしまい、僕が寝ている夜中のうちに沙奈が設定しなおしたのだと思った。
沙奈が居た隣のベッドは空。
ホテル備え付けのメモ帳には彼女の筆跡で“楽しかったよ。またね。”の文字。僕は“さよなら”と書かれていなかったことに、わずかに安心を覚える。
周りを飾るのは彼女の残した凝りに凝ったラクガキ。新幹線でずっと寝ていた彼女は、きっと一晩中起きていたんだろう。
ラクガキの中の僕の頭は盛大に毛が跳ねていて、思わず僕は慣れない枕でついた寝癖を気にしてしまう。
帰りの新幹線で僕は一人。
今度は僕が窓側の席に座る。
せっかくの窓側の席なのに、僕は車窓を流れる風景を空虚な風景と感じる。
彼女が望むことではないと知りつつも僕は縁結びの神様に奇跡を願った。
いつまでも、いつも、僕の隣に沙奈が居ることが僕の幸せだと。
互いを想いあうからこそ僕たちはすれ違う。
空の手で重い頭を支えて思い直す。
願いは叶わなくても、せめて最後の時まで彼女が幸せであるように。
余命三年半の彼女 雪白 瑚葉 @yukishiro_konoha
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