極彩色の反逆

緑茶

極彩色の反逆

 その男はある時、恋人を殺した。

 そして、その死体を加工して家を作った。


 彼は間もなくその家に引きこもるようになり、公に姿を見せなくなった。誰もがその行動を乱心と捉えた。

 『あの◯◯卿が――』『一体何があったのか――』などと。

 ……なんのことはない。自分にとって必要だと思われたことを行っただけである。だから彼はそんな声を無視して、自作の家で悠々と過ごしている。


 分厚い雲の下で、周囲が長い草に囲まれた閑散とした土地である。彼の家はその中にぽつんと佇んでいる。見た目はごく普通の一戸建てである。

 作りが少々古めかしい洋館のようであるのは、彼の趣味であった。ご丁寧に外壁には蔦が絡まっている。

 ――玄関を開けると、その様相は一変する。


 粘ついた音とともに扉を開けると、白濁した粘液の絡まった真っ黒な筋が幾重にも折り重なり、ブラブラと揺れながら垂れ下がっている。よく見るとそれは髪だった。 くぐると、脚にぐにゃりという感覚が迸る。赤黒い肉である。

 前を見れば、前方全てに広がっている。真紅の絨毯のように。肉は脈動し、突けばすぐにでも鮮血を吹き出しそうな有様だった。実際見ると肉の内側には生き物のような何かが蠕動するのが見えている。

 肉を踏みつけながら歩みを進めるとテーブルがある。肌色の柔らかい材質――紛れもなく、人間の表皮そのもので出来ていた。濁った色の上を夥しい繊毛が埋め尽くし、その合間を縫うようにして薄墨色と紫色の血管が奔っている。

 上を見上げるとシャンデリアがある。一見普通に見えるが、目を凝らせば光源の一つ一つがぬらぬらと濡れた多重構造の球体で出来ていることが分かる。黒い筋のようなものを外側に生やして、時折どろりとした雫のようなものをテーブルに落とすそれは眼球だ。

 更に周囲を見る。壁だ。手があり、足があり、乳房があった。テーブルと同じような肌の壁面に、幾本もの手と足、乳房が刺さって、何度も何度も痙攣しながら蠢いている。それらは著しく太っていて、時折ガスのようなものを噴出する。


 そんな空間の中に一人で座っていると、やがて声が聞こえてくる。耳を澄ませる――言葉がはっきりと聞こえてくる。


 『何故――どうして』。

 低くくぐもった女の声だ。怨嗟でどす黒く染められた女の声。

 肉の椅子に座る彼を責め立てるように、周囲全てから聞こえる。聞こえるたび、床を覆う肉の部分部分がぱっくり穴を開けて口を作り出す。

 そこから声が漏れているのだ。でっぷりと腫れぼったい唇。声は続く――『何故――どうして』『どうして私にこんなことを』。


 だが彼は目を瞑っているだけだ。彼にとっての声は室内楽のようであるらしかった。館の全てが彼女だったもので覆われていて、彼はその真っ只中にあった。ある意味彼は、恋人とずっと一緒に居た。

 彼は、満足げだった。その状況に対し、微塵の後悔も恐怖も、抱いている様子はなかった。


 口。口。口――いつの間にか彼の周りの肉はそれらでびっしりと覆われていた。声は何重にも重なって、低くなったり高くなったりを繰り返しながら、彼を詰った。

 どうして私をこんな目に遭わせたの――私はあなたにあれだけ尽くしたのに――そんな声が聞こえ続けていた。

 男はため息をついた。それから、自分を取り囲むものを見て苦笑する。

 やれやれ、しょうがないな――僕の恋人は。そんな調子だ。


「いいかい」


 彼は言った。あくまで平然と――続けた。


「僕が君をこんな風にしたのは、その声が聞きたかったからだよ……『なぜ』というその叫びをね」


 それから彼は、流れるように――詩を吟ずるように語った。

 ……結局最後まで、『彼女』には、彼の言ったことが理解できなかった。



 僕はね――不条理への怒りが欲しかったのさ。求めて求めて、求め続けていたんだ。


 僕という存在は、何もかもが完璧だった。完璧な家柄に生まれて、完璧な才能を持っていて。成績も。顔も。交友関係も――すべてが、そう、すべてが、だよ。

 他の誰もが欲しがるもの全てを僕は持っていたんだ。……あぁ、この言葉が誇張でないことは、君にだって理解できるだろう。だって実際に、そのとおりなんだから。


 僕が言ったことは全てその通りになったし、命じたことは全て実現した。誰も彼もが、そのように事を運んだ。

 そこに疑問など織り込む必要などありはしない。何故って、僕は完璧だからさ――理由などいらない。僕の言う通りにすれば、全てが予定調和の方向へと流れていく。ひとは、完璧なものを前にすれば、全ての疑問を投げ捨てる。必要としなくなる。


 ……君は僕が、あの社交界の連中になんと言われていたか知っているかい? 

 そう――『神』。神だよ。


 この世界の理を神が作り出している以上、人間は神の言ったことを疑うかい? 

 そうじゃないだろう――全てを盲目的に受け入れるものだろう。よしんば逆らう者が居たとして、それは神の存在を認めているからだ。

 そう――僕は神になってしまった。自分で言うことがおかしいって? 君には分からないだろうさ。全てを得てしまった現実がある以上、認めるほかないってね。


 そうして、誰もが僕の行動に従うようになってから、僕にとっても変化が起きた。 僕以外のすべての人間が、木偶にしか思えなくなったんだ。


 そんなのは――堪ったものじゃなかった。理由? あぁ――すぐに分かるともさ。 そんな風にして、僕にとっての障害が全てなくなったある時。君も覚えているだろう……僕は君に求婚をしたんだよ……。


 自覚しているかもしれないが、君は救いようのないほど器量が悪くて、醜い女だった。行動のすべてが鈍臭くて、ブクブク太った醜い豚。それが君だった。君は他の人達全てから疎まれ、憎まれ、軽蔑されていた。そんな君に、僕が求婚した。


 ……そんなのは、大事件だ。当然、普通なら君の周辺の人間であれ、君であれ、大いに戸惑い、騒ぎ……もしかすれば、怒り狂うだろう。馬鹿にしているのか、とね。

 あぁ、普通ならそうさ。普通なら。だけど言ったとおり、僕は普通ではない。


 現実は、こうだった。『君は、僕を、受け入れた』。何故って? 僕が、神だったからだよ。


 だから君は受け入れた――何の疑問もなく。それが、神の思し召しであるから、と。全ての思考は意味をなくして、ただただ神への崇拝だけが残る。だから、僕が何を言おうと、君はそれを実行していたと思う。とにかく君は受け入れた。僕の求婚を。『よろこんでお受けいたします』だって――? 白々しい。


 それで、どうなったか。僕は、絶望したんだ。

 実を言えば僕はね、自分の存在というものは不条理そのものだと考えていたんだ。神とは得てしてそういうものだろう。ありえない、ありえないことだらけなんだ。しかし、そんなつまらないものはない。僕は僕の全てにつばを吐きかけたかった。いや、というよりは……そうしてくれる存在を、ずっと探していたんだ。


 だから僕は、ほんの僅かな希望を胸に、理不尽で筋が全く通らない『君への求婚』を行ったんだ。あぁ――我ながら健気だったと思うね。少しでも希望を持っていたんだから。


 だけど、駄目だった。結局君は僕に逆らわなかった。普通ならありえない求婚でも、普通でない僕だから……従ったんだ。一切の疑問を持たずにね。

 それが何より、僕の心を傷つけた。僕はずっと願っていた――欲しがっていた。僕に対して、『何故』と言ってくれる人間を。……その思いは、その時再び裏切られたんだ。


 ならば――と。

 君を、こんな風にした。

 そして今、僕は君の言葉を聞いている。『何故なの』という言葉を。


 あぁ、ようやく聞けたよ。君の『何故』という言葉が――欲しかった、ずっと欲しかった、その言葉。

 僕はようやく、僕という不条理に唾棄してくれる存在を手に入れたんだ。それが君だ。あぁ、素晴らしいよ僕の恋人。これからもずっと、僕を呪ってくれ。僕に疑問を投げかけ続けてくれたまえ。


 外には居てられない。僕は君の中に居る間だけ、不条理に抗える――人間で居ることが、出来るんだ。

 だからこれからも――よろしくね、僕の恋人。



 しばらくして、世間の人間はようやく彼を発見した。すでにその所業には誰もが気付いていて、警察も動いていた。

 ――そこでようやく、異常な空間の中で恍惚としているその男が発見されたのである。


 赤黒く凄惨な肉の館の中で、男は何かをブツブツと呟いていた。彼は笑顔だった。周囲からは異常な唸り声のようなものが絶えず聞こえ続けていて、何人も精神に異常をきたして病院送りになった。

 彼が捕らえられた後、その場所は永遠に封鎖された。その異常性ゆえに、公にするわけにはいかなかったのである。


 さしもの男も、実際に犯罪を行ったとあっては救いようがなかった。

 大勢の人間が法廷で彼を取り囲んで、口々に話し合う。

「何故――」「完璧だった彼が、どうしてこんなことを――」

 彼は常に浮ついた笑顔を浮かべていた。全てが予定通りだと言わんばかりに。


 間もなく裁判長が死刑を言い渡して、その身柄が拘束される。


「この上なく常軌を逸した犯行であることは間違いなく、法を以て彼を裁く他無い――」


 その言葉が読み上げられる間、彼の脳裏には恋人の姿があった。


 不条理。あぁ、ようやく自分は、そこから解放される。


 彼は恍惚とした笑顔になって、遠のく言葉を聞いていた――。

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