第12話その12.

 口からするりと言葉が出てきた。頭で考えていない、ほぼ脊髄反射的な言葉だ。


 布野の手を掴んで歩き出す。手汗で気持ち悪いかも知れないけれど、かまうものか。僕は元々、手汗が酷いのだ。布野からは、抵抗を感じない。


「一人で死ぬのは怖いよな。僕も怖いから絵を描いていたんだし。でも今は、一人じゃないだろう。僕も一緒だ。逃げるのはもう最後しよう」


 死ぬことほど身近で、死ぬことほど得体のしれないものはこの世にない。そして、理解者ほど安心できて、頼れるものもない。

 死ぬことは怖い。今ある僕を消し去って、どうなるか分からない変化を強制的に起こすのだ。死後の世界なんていう、よくわからない不安要素もある。


 死後の世界の存在を信じているわけではないけれど、わからないということは、それだけで恐怖心を引き出す力を持っている。


 でも僕には、理解者であり、同じ様な想いと境遇の仲間がいる。布野が一緒なら、怖さにも耐えられる。

 何かの共有とは、こんなにも心強いものだったのか。僕は今になって、やっとそれを学んだ。


 布野はどうだろう。一人で死を迎えるよりも、怖いと思わないでいられるだろうか。

 屋上の端の方へとどんどん進んで行く。布野は、抵抗する姿勢を見せない。


「洵矢、本当に死ぬの。気を使わなくていいんだよ。もらってばかりだし、これまで付き合わせちゃ、流石に悪いよ」

 初めて僕を引き止めた布野の声音には、珍しく力がない。それでも僕らは、足を止めた。最後に、話をするために。


「わたしは、空を飛べたら死ぬって決めてた。けど洵矢には、これからも何年か続く一日ずつがあって、その度に違う空が見れるんだよ。もしかしたら、もっといいものが見れるかもしれない。それを、ここで捨てていいの」


 布野も、僕が一緒なら心強いと思ってくれるのか。それはよかった。

 僕らは、ここで出会った。この屋上で、特に何をするというわけでもないけれど、ただ隣同士に座っていた。僕が絵を描き、布野が漫画を読む。

 雨が嫌いになった。屋上へ出られないから。雨が降ると、美術室に一人だった。それがなんだか、味気なかった。


 廊下ですれ違っても挨拶なんてしない。放課後待ち合わせをしたこともない。恋愛感情なんて湧かない。二人でどこかへ行ったこともない。ここが僕らの安息であり、檻だから。

 僕らは二人で、一つの檻を共有したのだ。なら、出る時も一緒じゃないと、決まりが悪い。それに、僕一人で使うには、ここはもう広すぎる。


 一旦手を離すと、僕は緑の柵を乗り越えた。

「何を言ってんだ水臭い。散々僕の一人を邪魔したんだ、お前の一人を邪魔する権利くらい、くれたっていいだろう」


 布野を促す。

「けど……」

 戸惑う布野に、僕は今までで一番の笑顔を見せてやった。

「僕は、僕が思っている以上に負けず嫌いらしい。今日初めて知った。さあ行こう。新しい人生の始まりだ」


 漫画のように気取ったセリフを吐くと、布野はゲラゲラと笑った。ギャグマンガを読んでいる時に、聞いた笑い方だ。


「いいね。そうしよう」

 布野も同じように柵を乗り越えて、僕の隣に立つ。手は繋がない。僕らは、僕らの手と足で次を掴まないといけないから。


「しかし、洵矢は笑顔が下手だね」

「うるさい。お前ほど表情筋が鍛えられてないんだよ」


 顔を見合わせ、ニッと笑う。いたずらをする前の小学生は、こんな顔で笑うのだろうか。殻にこもっていた時間が長すぎて。殻の中の体感時間が長すぎて、忘れてしまった。


 僕らは子供だ。わがままで、ごうまんで、駄々をこねるしかできない無力で無声帰任な子供だ。


 七月中頃の空気は暑く、大気はジメジメとしている。湿気は、僕と世界の境界を曖昧にする。太陽は、雲に隠れていようとも、僕達の肌に熱を伝えてくる。

 布野が横に立っているからか、右側のほうが熱を強く感じられた。布野の熱なら、まあ悪くない。


「来世は何になるかな。また人間なら、次は女の子がいいな」

「ええ、なにそれ。なんか変態的なんですけど」


「うるさいな。じゃあ布野は男の子経験してみたくないのかよ」

「そうだね、木登りしても咎められないのは羨ましいかな」


「布野は、男の子でも変わりなさそうだな」

「失礼な。女の子らしい一面もあるんだから」


「女の子は、あぐらをかいてギャグ漫画を読みながら品無く笑ったりしません」

「残念でした。それは男の子の勝手な妄想です」


 もう拳は震えていなかったし、布野は泣いていなかった。


「なあ布野、もし生きてたらどうする」

「その時は洵矢も生きてるだろうし、絵の描き方でも教えてもらおうかな」

「じゃあ僕は、面白い漫画いっぱい持って来てもらおう」

 二人してゲラゲラ笑うと、膝をうんと曲げ、勢いを付けて僕たちは飛び降りた。


 空は蓋をしたように相変わらず曇っていて、自由を僕たちに与えてはくれない。

 けれど僕は、確かにその時、少しだけ身体が浮いたような気がしたのだ。

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